クー・フーリン三兄弟のご近所さん オルタとの話2
塾帰り、今日もリツは喫茶店に行っていた。
この時間帯はいつもオルタがいて、厚かましくも相席させてもらう。
「オルタさん、こんばんは」
「ああ」
オルタも慣れたのか、本から顔を上げてちらとリツを見る。
リツは、お決まりのようにオルタの隣に座り参考書を広げた。
「今日は理科か」
「はい、理科って数学的なとこもあって、そこが・・・」
用語を覚えるのはいいが、電圧の計算になるともう駄目だ。
オルタは参考書を覗き込み、解を考える。
「いいか、単純に掛ければいいだけじゃない、ここに抵抗があるから電圧は下がる」
「本当だ、いかにも通りにくそうなマークがある」
「ここで並列から直列になる、再計算しろ」
「あー、確か計計算方法が違ったような・・・やってみます」
リツは、集中して参考書と向き合う。
脳は疲れている、けれどオルタの声を聞くと不思議と覚醒するようだ。
こうして隣に座らせてくれるだけで、幸福感も覚えていて
この時間がずっと続けばいいと、毎回そんなことを思っていた。
オルタは、問題に取り組むリツを何気なく眺める。
まさか、自分がこうしてものを教える立場になるとは。
風貌に怯んで逃げる者は多い、けれどこの少年はむしろ近付いて来る。
煩くなく、疎ましくもない、一人の時間を過ごすために夜の喫茶店に来ていると言うのに。
腕や足を触られても鬱陶しくなかった、勉強を教えてやるのも面倒じゃない、いつの間にこんなに接することに慣れたのか。
相手は緊張することはあるようだが、最近ではその様子もほとんどなくなった。
ふわふわしていそうな髪が自然と目に入り、癖っ毛のある髪がたまにふわりと動く。
リツが問題に集中しているのをいいことに、手を伸ばしていた。
さらりと、指が柔らかい髪をすく。
そのとき、リツはぎょっとしてシャーペンを落としていた。
「驚かせたか」
「あ、いや、いえ、別に、特に、そんな」
オルタから、髪に触れてくれた。
何でかはわからないけれど、とにかく焦ってしまう、しどろもどろになってしまう。
相手から、そうやって近付いて来てくれた。
指が軽く髪をすいただけ、それだけでも何でこんなに焦り、そして、胸が高鳴るのだろう。
「おい、ここの式間違ってるぞ」
オルタが身を乗り出し、ノートを指差す。
腕が、肩が触れる。
オルタが何か小難しい式を言っているようだったけれど、案の定頭に入らなくなる。
「あ、あの・・・トイレ、行って、きます」
もう問題どころではないと、トイレへ逃げた。
以前のように、個室に入って気を落ち着けようとする。
どうしたのか、結構慣れてきたと思ったのに、軽く接しただけで駄目になる。
けれど、こんなに焦るのに、また触れてほしいと思ってしまう。
気兼ねなく相席させてもらえることで、調子に乗っているのだろうか。
もっともっと、接していたいと思うのは。
あまり長く離れていては不審がられると、考えを巡らせるのもそこそこに席に戻る。
テーブルの上には、いつも頼んでくれるココアが置いてあった。
もはや、それを見るだけで鼓動が反応する。
「あの・・・いつも、ありがとうございます」
「ああ」
席につき、お礼を言うときだけは敬語になる。
早々に頭が働いていないと判断されたのか、ノートも参考書も閉じられていた。
ココアは甘くて美味しい、けれど飲み終えれば帰らなければならなくなる。
飲み干すのが惜しい、出来る限り長引かせたい。
オルタはすでに本に集中していて、べらべら話すのは良くない。
ココアはもう半分だ、塾帰りの貴重な時間が終わってしまう。
「あ、あの」
呼びかけに、オルタはリツに目を向ける。
「・・・近々、塾の定期試験があるんだ。それで・・・もっと長く・・・うちに来て、教えてもらえない・・・かな・・・」
厚かましいことはわかっている、けれど言わなければずっと喫茶店で終わってしまう。
試験なんてでっちあげだ、ただ、もっと共に過ごしたかった。
「日中は無理だ」
「夕方からでも、夜からでも、オルタさんの都合の良い時間でいいんで・・・お願い、します」
声を張り上げなくても必死なようで、耳が赤い。
大の大人が、少年の部屋に行くのは好ましくないことだろう。
けれど、オルタはどう言えばうまく断れるか思いつかなかった。
「・・・わかった、夜でもいいんだな」
驚きと興奮が入り混じり、リツはぱっと顔を明るくする。
本当に子供っぽくて眩しいくらい純粋だと、オルタはつくづく痛感していた。
あくる日、とうとうリツはオルタを家に呼んでいた。
ちょうど、両親が二人共帰宅しない日を見計らって。
今晩は、どうしても、二人で過ごしたかった。
呼び鈴が鳴らされ、いよいよだとリツは固唾を呑む。
扉を開けると、もう見慣れた威圧感のある相手が佇んでいた。
「こんばんは。どうぞ、入ってください」
「ああ」
始めて、家にオルタを招き入れる。
リビングでもよかったけれど、勉強と言う体があるので自室へ来てもらう。
机には二つの椅子が準備してあり、上にはすでに数学の参考書とノートが開けて置いてある。
「用意がいいな」
「来てくれるって、そう言ってくれたから・・・。早速、お願いします」
椅子に座り、しばらくは普通に、真面目な雰囲気が続く。
本当は塾のテストなんてない、これはただの復習だ。
ところどころわからないふりをして、応用を教えてもらう。
スムーズに進んでいったので、あまり時間もかからず問題が終わった。
「順調だな」
「はい、これでテストもいい点が取れそうな気がする、ありがとうございます」
リツは、そそくさと参考書やノートをしまう。
「これで用事は終わりか」
「・・・いえ、まだ・・・」
椅子に座ったまま、リツはオルタと向き合う。
「今日は、伝えたいことがあって・・・実を言うと、勉強はおまけで・・・」
「どうりで、やけに進みが早いはずだ」
見抜かれていたようだけれど、怯みはしない。
「あの・・・オルタさんって、彼女・・・いるん、ですか」
「ああ?女なんぞ、群れて煩いだけだ」
この調子ではいないのだろうと、リツはほっとする。
「かくいうお前は、まあ聞くまでもないか」
「い、いないけど、でも、好きな相手は、いる・・・」
「ほう、片思いでもしてんのか」
まさしく、そのとおりだ。
その相手は、予測もつかないだろう。
「・・・その人は、背が高くて、口数が少なくて、不愛想で、威圧感があって・・・
正直、おっかないっていう印象、強いです」
オルタは黙り、じっとリツの話を聞く。
「でも、直接的じゃないけど気遣ってくれて、我儘聞いてくれて、静かで群れないことが好きなはずなのに、傍に居させてくれる・・・」
ここまで言われて、察しない程オルタは鈍感ではない。
「・・・恋慕と憧れを混同するな」
「混同してません!前に、バイクに乗せてもらったときもドキドキしたし・・・」
「吊り橋効果は知ってるか、別の要因の鼓動の高鳴りと思慕を勘違いする現象だ」
「そうじゃないんです!喫茶店で出会えたときも、銭湯に行ったときも・・・一緒に寝させてもらったときも、ずっと・・・!」
訴えるように、リツはオルタの手を両手で握る。
大きくて武骨な手、こうして触れるだけでも心音が高鳴るのに、勘違いなわけがない。
「今、こうして、手を握っている間だって離れたくなくなる。
・・・好き、なんです。・・・オルタさん、あなたのことが・・・」
嘘偽りではないと訴えるよう、真っ直ぐに目を見て伝える。
ご近所のただの少年が、何て世迷言を言っているのだと思われているだろう。
けれど、このまま思いを秘めたまま、オルタに彼女ができてしまったら
きっと、毎晩眠れなくなり食欲がわかなくなるほど後悔するだろう。
呆れられ、距離を置かれるかもしれない。
手に、じんわりと汗がにじむ。
「・・・俺は男だぞ」
「わかってます!」
即答され、オルタには反論する言葉がなくなる。
兄弟さえも疎ましく、一人でいることが多かった。
だが、どうもこの少年には甘くなる。
勉強を教え、共に眠り、あまつさえ手に触れることまで許している。
恐れず接してくる少年を、なぜ今まで跳ね除けないでいたのか。
答えに気付かされたのは、今この瞬間だった。
「・・・で、どうしたいんだよ」
「え」
聞こえてきたのは、否定ではない言葉。
どうしたいのか、言っていいのだろうか。
掴んだ手も振り払われず、近くに居るままで、言ってしまってもいいのだろうか。
理性はものを考える余裕がなくなる。
けれど、本能だけは働いていた。
「じゃ、じゃあ、あの、えと・・・キス、したい・・・」
理性を飛ばしてそう言うと、オルタが目を閉じる。
するならさっさとしろと、許してくれている。
いいのだろうか、本当に近付いてもいいのだろうか。
心臓が瞬時に落ち着きを無くす。
パニック状態に近くても体は勝手に動き、オルタの肩に手を置いて椅子に乗り上げる。
もう、相手が目を開ける前にしたい、触れたい、重ねたい。
少しずつ、顔を近づけていく。
触れる前から、心臓がはち切れそうなほど鳴っている。
心筋梗塞が起こってしまう前に、してしまいたい。
リツは目を閉じ、思い切って、重ねていた。
だが、それは同じ場所ではなく、ただ口端を掠めただけだった。
口の割には、行動がまるで伴わない。
やはり中身はガキだと、オルタは心の中で嘲笑する。
リツが離れようとしたとき、背に腕を回して引き留める。
そして、後頭部に手を当て、引き寄せていた。
一瞬の出来事に、何が起こったのか処理が追い付かない。
抱き留められ、口端ではなく唇がオルタと重なっている。
柔くて温かくて、思考が止まる。
それは、とても大きな幸福感に満たされているからに他ならなかった。
少し間を空け、手が離される。
「オ、オルタ、さん・・・」
「そこまで言ったんだ、覚悟しろよ」
オルタは、ニヤリと怪しく笑む。
どこか猟奇的なような、そんな笑みを向けられて、リツは「はひ・・・」としか返事ができなかった。