クー・フーリン三兄弟のご近所さん2





今日も今日とて、リツは塾通いだ。

学校が終わり、夕飯も食べてからの時間になるのでどうしても遅くなる。

今日は近道なんてせずに明るい道から帰ろうと、大通りを行く。

道は店の明かりで照らされて、人は少なくても安心感がある。

時たま、まだ営業している喫茶店からふわりとコーヒーの香りが漂ってきて、つい目をやっていた。



そのとき、見知ったフードを被っている人が目について、二度見する。

まさかと思いきやまさかで、オルタが喫茶店で読書をしていた。

じっと見ていると、視線に気付いたのか目が合う。

会釈して立ち去ってもよかったけれど、思い切って中へ入っていた。



「オルタさん、こんばんは」

「ああ」

4人がけの席の、斜め向かいに座る。

ほとんど同時に店員が水を持って来て、お決まりになりましたらお呼びくださいと、声掛けをして他の所へ行った。

「何読んでるんですか?」

オルタは黙って、本の表紙を見せる。

それは英語のような、ドイツ語のような、どこかの読めない文字が書かれている。

イラストもない、こざっぱりとした表紙に、もしかして試験の参考書なのかと思う。



「・・・オレも、ここで勉強していいですか?あの、邪魔になるんだったらすぐ帰りますけど・・・」

「好きにしろ」

思いがけない承諾の言葉に、リツに喜びが溢れる。

勉強してきたばかりだけれど、ここに居られる口実になるならいいと数学の教科書とノートを出した。





オーダーすることも忘れ、問題に取り掛かる。

今日の科目は苦手な数学、だからこそ勉強しなければいけないのだけれど、正直溜息が出そうな難易度だ。

まずは単純な計算問題を解くけれど、少し応用に入るとぴたとシャーペンが止まる。

本調子のときでも嫌なのに、塾の後にまた勉強することを頭が拒否しているようだ。

文章題になるともう駄目で、無意識のうちにうーんと唸っていた。



「そんなモンもわからねぇのか」

呻きが気になったのか、オルタが教科書を見る。

「う・・・そ、そりゃあ、大学生から見れば簡単かもしれませんけど・・・」

「いいか、長ったらしく書いてあるがこの問題と同じ公式を使ってみろ」

「え?これが・・・あ、ほんとだ、文章題に当てはまってる」

「後は展開して計算するだけだ」

言われたとおりにすると、本当に答えが導き出せてリツは目を丸くする。

一瞬で解いたこともそうだが、まさか教えてくれるとは夢にも思っていなかった。



「あ、ありがとうございます、オルタさん数学得意なんですね」

「普通だ」

オルタのことは、朝が苦手でろくに大学に行っていないとキャスターから聞いていたけれど

夜にはこうして勉強していて、それを知っているから許しているのだろうと察した。

「じゃあ、この公式を使えば次の問題も・・・」

できる気がしたが、ページが変わると分野も変わる。

いきなり1問目で詰まってしまい、またペンが止まった。

しばらく見ていたが、オルタはやれやれと言うように教科書を指差す。



「いいか、これは・・・逆だと見難い、隣に来い」

「え」

ぽかんと呆けていると、ノートと教科書がひったくられ逆を向く。

そこに行くしかなくなって、おっかなびっくり、遠慮がちに腰掛けた。

「いいか、この分野はさっきの式2つを組み合わせてやる」

「は、はい」

なんて近い距離だろうか、もう腕が触れてしまいそうなほどだ。

オルタは参考書を指差すけれど、緊張感からか文字が認識できない。



「すると、この形になる。ここからxを挿入した後割り戻せ」

「え、えと、割り戻し・・・」

何を、どれを言っているのかわからなくなってしまって、シャーペンは動かない。

考えがまとまるのを待っているのか、オルタは言葉を止めている。

「あ、あの・・・ちょ、ちょっと、トイレ・・・行ってきます」

たぶん、このままでは朝までかかっても答えが出ない。

一旦落ち着こうと、そそくさとトイレへ逃げ込んでいた。





個室に入って、とにかく気を落ち着ける。

予想外のことが突然起こりすぎて、疲れた脳ではついていけていない。

一匹狼で近寄りがたいと、他の二人から聞いていただけに、相席はかなり勇気がいた。

それなのに、まさか勉強を教えてくれて、隣に招いてくれるなんて。

先日助けられたときもそうだが、衝撃が強すぎた。

決して恐怖心ではなく、それ以外の要因だ。



あまり長く離れていては不審に思われると、席に戻る。

そのとき、オルタは携帯で誰かと離していたようだけど、ちょうど終わった。

平常心を保てと言い聞かせつつ席に戻ろうとしたけれど、教科書もノートも閉じられていた。

教えるのが嫌になったのだろうか、拍子抜けのような、残念のような気持ちで元の斜め向かいの席に座り直す。

そのとき、見計らったかのように店員がホットココアでございます、とカップを置きに来た。

案外甘党なんだろうかと思ったが、カップは自分の前に置かれている。



「あ、オルタさんが頼んだんですよね」

「俺は飲まねぇ」

「え、じゃあ・・・」

オーダーミスですか、と言おうとしたが遮られる。

「頭動いてねえんだろうが、今日はそれ飲んで帰れ」

また、まさかの出来事が起こって目を丸くせずにはいられない。

一向に進まない様子を見て、気遣って、頼んでくれたなんて。

いくら強面に見えても、世話焼きの兄と本質は同じなのかもしれない。



「あ、ありがとうございます、いただき、ます」

この時間を少しでも長引かせたいと、ちまちま飲む。

疲れた脳に甘いココアが染み渡るようで、ほっと息を吐いた。

おいしくて、ついつい短時間で飲み終えてしまい、ここに居る理由がなくなってしまった。

次にこうして会えるのはいつになるだろうと思うと、中々腰が上がらない。

まごまごしているのを見て、オルタは本を閉じる。



「そろそろ帰るぞ」

「あ、はい、じゃあ、あの、オレも、一緒に・・・」

オルタはリツが財布を取り出す前にさっさと会計を済まし、喫茶店を出る。

夜が深まるにつれ、大通りも静かになっていく。

明かりも少なくなり、暗い場所もあったけれど、オルタの隣に居ると安心していた。

もしかして、絡まれるのが不安で一人では帰れないのかと思われただろうか。

申し訳ないと思いつつも、共に帰宅できることを密かに喜んでいた。







帰路は、近道ではなく大通りを歩く。

いくら屈強なボディーガードがいると言っても、危険地帯を避けてくれているのだろう。

「あの、オルタさんはいつもさっきの喫茶店にいるんですか?」

「夜はな。昼間は鬱陶しい奴がいるが、飯が旨い」

相性の悪い店員でもいるのだろうか。

「・・・もし、お邪魔じゃ、なければ・・・また、立ち寄ってもいいですか」

勇気を出して、お願いしてみる。

読書の妨げになっていたことは明らかだけれど、わずかな希望に賭けてみたかった。



「別に、喫茶店に入るのに俺の許可はいらんだろう」

「あ・・・それも、そうですね」

何を、また相席に座ろうとしているのか、自分の厚かましさに恥ずかしくなる。

「また来るのはいいが、その前にそのむず痒い言葉遣いを何とかしろ」

むず痒い、と言われて呆けたけれど、もしや敬語のことだろうか。

「で、でも、年上ですし・・・」

遠慮がちに言うと、拒否権はないと言うようにじろりと睨まれる。



「じゃ、じゃあ、遠慮なく、敬語止めま・・・止める、よ」

たどたどしい言葉になってしまい、リツは赤面する。

みるみるうちに赤くなっていくリツを見て、オルタはククッと笑った。

この人も笑うことがあるのだと、リツははっとする。

ここが外でなければ、じっと凝視していたかもしれない。



帰路はとても短く感じられて、あっという間に家に着いてしまう。

ふと腕時計を見ると、塾帰りにしてはだいぶ遅い時間帯になっていることに驚く。

「今日はお世話になっちゃって、時間があっという間・・・だった」

まだ上手く話せなくて、変な言葉遣いになる。

離れ難い思いはあるけれど、急いで帰らないと心配をかけてしまう。



「・・・お前の親には、キャスターから連絡が行ってるはずだ」

どういうことかすぐにはわからず、リツはきょとんとオルタを見上げる。

けれど、さっきの電話はその連絡を取っていたのだと気付いた。

不器用なような気遣いに胸が温かくなるって、その温もりは自然と頬を綻ばせていた。

ふいに笑顔を向けられ、オルタは乱雑にリツの頭を撫でる。



「じゃあな」

「あ・・・お休みなさい」

リツは、名残惜しそうにオルタの背を見る。

不愛想で、近寄りがたくて、遠い存在に感じていた相手。

近くに居ることを許されたことが嬉しくてたまらなくて、しばらくの間幸せを噛み締めていた。