軍事国家11
彼と別れた後、僕は早足で医務室へ向かっていた。
彼は治療が終わったと言っただけで、成功したとは言っていない。
だからこそ、早くラトの様子を見に行きたかった。
医務室の扉を開け、中に入ると、かすかな薬品の匂いが鼻についく。
足を組んで椅子に座っていた医師は、僕に気付くと立ち上がった。
「おみまいに来たのかい。けれど、今は眠っているよ」
医師がベッドを指差すと、僕はすぐにカーテンを開く。
ベッドにはラトが横たわっていて、治療はうまくいったのか、顔の血色はよくなっているようだった。
「ラト・・・」
返事はないとわかっていても、呼びかけずにはいられなかった。
早く、ラトの饒舌な嫌み事を聞きたい。
毛布の下に手を潜らせ、そっと手を握る。
その温度は冷たくなく、ちゃんと人の体温を持っていて、心底安心していた。
以前は、他者と関係を持つことなんてわずらわしいだけだと思っていたのに。
今は、ラトや彼との繋がりを求めていた。
「明日には目が覚めると思うから、また来なさい。患者以外の人を泊まらせるわけにはいかないのでね」
「そうですか・・・」
できればラトが目覚めるまでここにいたかったが、医師に言われては仕方がない。
後ろ髪を引かれつつ、僕は医務室を出た。
その後、あまり食欲はなかったが食堂で遅い夕食をとり。
自室に戻ったら、さっと体を温めてベッドに横になった。
早く眠って、早く明日になってほしい。
早く眠りたいと思うほど、不思議と目が冴えてゆくようだった。
だが、やがてうとうとと意識がまどろんでくる。
このまどろみは、まるで夢と現の狭間にいるような感じがする。
もう少しで眠れるのか、それともすでに浅い眠りについているのかもしれない。
だから、僕は気付かなかった。
部屋に誰かが入ってきて、すぐ傍に、いることに。
「・・・リツさん」
呼びかけられ、薄らと目を開く。
そこにいたのは、最も会いたいと思っていた相手だった。
「ラト・・・?」
焦点の定まらない目で、ぼんやりとラトを見上げる。
ラトはいつの間にかベッドに乗り上げ、僕を見下ろしていた。
「リツさん。心配してくれて、ありがと」
聞き間違いではないだろうか、やけに素直なお礼の言葉が発される。
たぶん、これは夢なのだろう。
そうでなければ、明日目覚めるはずのラトがここにいるはずはないし。
こんなに素直にお礼を言うはずもない。
これは、ラトに会いたいという願望が見せている幻なのかもしれなかった。
「リツさんがボクのために慌てふためいて、必死になってくれて。・・・すごく、嬉しかったよ」
愛嬌のある笑顔で、ラトは言う。
やはり、これは夢か幻なんだ。
今まで、こんな風に笑顔でお礼を言うラトなんて見たことがない。
「そうか・・・」
僕は腕を上げ、ラトの背を抱く。
引き寄せようと力を入れると、ラトは自分から身を下ろしてきた。
毛布があるせいで、お互いを完全に重ね合わせることはできないけれど。
すぐ近くにラトの存在を感じられて、僕はふいにラトの服の中へ両手を滑り込ませていた。
「えっ・・・」
ラトは、自分の背に直接触れられていることに驚いているようだったが、嫌な顔は見せなかった。
服という隔たりさえも、わずらわしい。
僕は少しでも、その存在を感じたかった。
ラトの体温が、掌から直に伝わってくる。
その温度に、僕はやはり安心していた。
「・・・リツさんって、人とこんなにべたべたするの好きだったんだ。いやらしー」
茶化すような声が、目の前から聞こえてくる。
他者の体温を感じたいという思いは、ラトの言ういやらしいことなのだろうか。
けれど、何と言われようと、僕はラトに触れたかった。
「・・・リツさん」
ラトが、首元に顔を埋めてくる。
甘えているような、はたまた何かを抑えるような感じがする。
首元にかかるラトの吐息が温かくて、僕はいっそう、うとうととまどろんできていた。
「・・・ね、リツさん、一旦離して」
もっとラトの体温を感じていたかったが、僕は執着せずに手を離す。
ラトがわずかに身を離し、至近距離で見下ろしてくる。
「リツさん、目、閉じて」
目を閉じればもう開けない気がしたが、ラトがそう望むのなら逆らわなかった。
僕は目を閉じ、力を抜く。
「・・・最初で最後だから・・・・・・許して、リツさん・・・」
言葉と共に、ラトの吐息がかかる。
かなりの至近距離にいるのだと、目を閉じていてもわかる。
何が最初で最後なのだろうかと疑問に思った瞬間。
唇に、柔らかな感触を感じた。
今、重ねられているものは、人の皮膚より幾分か柔らかい。
何が、触れているのだろうか。
とても温かくて、心地良い。
肌に触れたときとはまた違う安心感に、身を包まれる。
目を開いて確かめようかとも思った。
けれど、今感じている感触がとても心地良くて。
この温もりを感じながら眠ってしまいたいと、体が主張しているのか、瞼は、少しも開かれなかった。
それが重ねられていたのは、少しの間だった。
けれど、僕はその短時間でも、大きな安らぎを感じていた。
「・・・ありがと、リツさん・・・。
・・・・・・さよなら」
その言葉を最後に、人の気配が遠ざかって行く。
さよならとは、どういうことなのだろう。
この場から立ち去る、という意味で言ったのだろうか。
これは夢だと思うのに、やけに鮮明に残る言葉に、なぜか不安を感じる。
だが、その不安が大きくなる前に、意識は途切れてしまった。
翌朝、僕は妙な胸騒ぎを覚えて目を覚ました。
窓の外は、まだ少し暗い。
もうひと眠りしようかと思ったが、僕は体を起こしていた。
昨日、まどろみの中で聞いたラトの言葉が、胸につっかえて仕方がない。
「さよなら」と、そう言われた。
嫌な予感が、胸騒ぎを引き起こす。
もしかしたら、ラトはこの世から去るために別れを告げたのだろうか。
そんな不吉な想像が、脳裏をよぎる。
大げさな推測だと、自分でも思うけれど、いてもたってもいられなくなって。
僕は冷水で目を覚まし、軍服に着替えて外に出た。
足は医務室ではなく、ラトの部屋へ向かう。
目覚めるのは今朝だと言われたが、もしかしたら部屋で眠っているかもしれないという希望があった。
こんなに朝早く訪ねるなんて、迷惑極まりないことでも。
一目、ラトの顔を見なければ、胸騒ぎが落ち着きそうになかった。
ラトの部屋に着き、慎重に扉を開ける。
寝ていることを考えて、足音を潜めて奥へ進む。
ラトは、こんなに早い時間にもかかわらず起きていて、せわしない様子で大きな鞄に服を詰めていた。
「ラト・・・?」
呼びかけられ、ラトはびくりと肩を震わせた。
「リツさん!?」
ラトは目を見開き、明らかに驚いた様子で僕を見た。
こんなに朝早くに訪ねてくる非常識な相手がいるとは思わなかったのだろう。
「・・・何をしているんだ?」
「何って・・・見てわからない?出て行く準備だよ」
ラトの言葉に、今度は僕の方が目を丸くした。
「出て行くって、どうして・・・」
「・・・そんなの、リツさんに関係ないでしょ。ボクが出て行きたいって思ったから、出て行くだけ」
その答えは全く説明になっておらず、僕はわずらわしさを覚える。
「何で、どうして出て行くんだ。説明してくれ」
ラトに詰め寄り、再び問いかける。
出て行くということは、軍を抜けるということ。
戦争中に戦いを放棄するなど、軍人にとってはあるまじきことで。
そんな不名誉なことを自ら進んでするなんて、考えられなかった。
「・・・ボク・・・・・・」
ラトは何かを言おうとしたが、閉口した。
「言ってくれ、ラト。何の説明もなしに出て行くなんて、納得できない」
僕はさらに詰め寄り、言葉を促す。
ラトは一歩後ずさったが、俯きがちに呟いた。
「・・・・・・ボク、もう戦争に出られない」
かすかな囁きが、耳に届く。
「肩の神経が切れそうになってて、それで、肩に衝撃が加わる銃は・・・もう、使っちゃいけないってさ」
「銃が・・・使えないのか」
それがどんなに絶望的なものか、僕にもわかる。
自分の唯一の武器が使えないということは、戦うことができないと同じ。
それは、軍人の存在意義を失うに等しいことだった。
「・・・敵を撃てないんじゃつまんなくて、ここにいる意味ないよ。
でも、これで鬱陶しい奴らの顔見なくてすむし、面倒な演習もしなくてすむもんね」
ラトは、明るい口調で、悲しいことを言った。
その様子は、必死に己の内を隠しているようにしか見えない。
銃が使えないと言われたとき、どれほど愕然としたことだろう。
もし、僕が刀を振れなくなったら。
戦うことしか存在意義がない僕は、きっと、耐えられない。
「だから・・・出て行くのか。誰にも、声をかけずに・・・」
自分の弱いところを見られまいとする、防衛策なのかもしれないが、僕は嫌だった。
自分の知らない内にラトが出て行くなど。
そんなことは、ラトが見ていないときに僕が戦地で死ぬことと同じだ。
けれど、それ以上に、僕は―――。
「・・・昨日、言った・・・」
ラトがかすかに何かを呟いたようだったが、その声はか細すぎて耳には届かなかった。
「・・・とにかく、もうこんなところうんざりしてたんだから、もうどっか行ってよ」
「・・・嫌だ」
「え?」
「出て行かせなんてしない」
僕は真っ直ぐにラトを見据え、近付く。
「な、何言ってんの、リツさん。そんな勝手なこと言わないでよ」
そう、勝手なことを言っているとはわかっている。
戦えなくなったから出て行くと、ラトの理由は理にかなっている。
けれど、どんな理由があろうとも、僕はそれを引き止めずにはいられない。
「ここから出て行くなんて、僕が許さない」
僕はまた身勝手なことを言い、一歩近付く。
その気迫に押されたのか、ラトは後ずさった。
ラトには、帰る場所がある。
戦争が終われば、自ずと別れることになる。
そうわかっていても、引き止めたい。
戦争が終わるまでの間、ここにいてほしい。
自分でも信じられないほどの強い願望が、胸の内に生まれていた。
「リツさん・・・だって、ボクはもう戦えないんだよ?戦えない軍人なんて・・・」
ラトの背が壁につき、歩みが止まる。
僕はそれでも距離を詰め、真正面に立った。
「戦争は、もうすぐ終わる。ハルさんに、そう聞いたんだ」
彼の名前が出たとたん、わずかにラトの視線が揺らいだ。
「だから、それまででいいから・・・ここに、いてほしい」
僕は、壁に両手をついてラトを逃がさないようにする。
嫌だと言われても、行かせたくなかった。
自分は、こんなにも身勝手な人間だったのだろうか。
迷っているのか、ラトは視線を落とす。
僕はその迷いを振り切らせようと、そっとラトを抱きしめた。
「リツさん・・・」
突然のことに緊張したのか、ラトの体がわずかに強張る。
それを庇護するように、できるだけ優しく身を包んだ。
これほど、他者を求めることなんてなかった。
誰かをこうして、自分の腕の中に留めておきたいと思うなんて、初めてだった。
いくら愛想がなくて、ろくに会話もしない僕のような相手の傍にいてくれた存在。
今度は、僕がラトの傍にいてあげたいと、強く思うようになっていた。
「・・・ボク、もうリツさんのサポートできないんだよ。
ただの、口が悪くて生意気な奴になるんだよ・・・」
戦えなくなった自分を認めたくないのだろう。
ラトの言葉は、消え入りそうなほど弱い。
「それでもいい。演習に出られなくたって、嫌み事を言ったって、それでもいい。
・・・まだ、傍に、いてほしい」
改めて、自分はなんて我儘なことを言っているんだと思う。
戦えなくなった者が軍部に居座るなど、周囲から良く思われないとわかっているのに。
それなのに、まるで僕は自分のことしか考えていないようにラトを引き止めようとしていた。
それほど、僕はラトを手放したくないと思っている。
ラトは、たった一人の友達だから。
ラトを抱く手に力を込め、離れたくないと主張するように、ラトの体をさらに引き寄せる。
服の上からでも、ほんのりと体温が伝わってきて。
それをもっと感じたいと思った僕は、何かを考える前に自らの手をラトの服の中に忍ばせていた。
「っ・・・リツ、さん・・・」
緊張したのか、ラトは僕の服を掴む。
背に触れている掌が温かい。
こうなると、人の欲望は果てしないもので。
僕はもう少し、その温もりを感じたいと思っていた。
「ラト」
頭上から名を呼ばれ、ラトが顔を上げる。
ひとまわり小さいラトが、戸惑っているような表情で見上げてくる。
僕は一瞬視線を合わせた後、わずかに首を下げ、ラトの頬に、そっと唇を合わせた。
「あ・・・」
戸惑っているような声が聞こえてくる。
掌で触れているときと、今こうして、唇で触れているときとは感じるものがどこか違う気がする。
温かいことに変わりはないのだけれど、自分の心音が強くなってくるような。
慣れないことをしているから、そう感じるだけだろうか。
やがて、触れていた箇所を離す。
もう、身も離そうかと思ったが、物足りなさを感じる。
もう少しだけ、ラトに触れたい。
僕は、自分の中に芽生えた願望に押された。
体を少し傾け、自分の顔の位置を下げる。
そして、目の前にある首筋にも、そっと唇を合わせていた。
「え・・・」
ラトの肩が、わずかに震える。
けれど、突き飛ばされはしなかった。
触れた頬もそうだったが、首も温かい。
その感触が滑らかで、思わず、唇をゆっくりと滑らせていた。
「っ、ん・・・」
滑らかな、ラトの肌の感触が伝わる。
その感触に、僕は―――恍惚していた。
まるで正常な判断をさせなくするように、頭がぼんやりとしてくる。
気が付くと、僕はラトの肌に、強く唇を押し付けていた。
「リツ、さん・・・っ」
服が、強く引っ張られる。
そこで、僕ははっと我に帰った。
腕を解き、身を離す。
ラトの表情は、戸惑っているような、動揺しているような、そんな感じだった。
「・・・ごめん」
我に返って思い返してみると、とんでもないことをしていた自分に気付く。
頬に、首に、自らの唇を触れさせるなんて。
ラトが動揺するのも無理はない。
他者と関わり合うことを嫌っていた僕がこれほど積極的な行動をするなんて、自分でも驚いているほどなのだから。
「・・・リツさんは、ボクに出て行ってほしくないの?」
そう尋ねるラトの声は、さきほどよりはいくらか覇気を取り戻しているようだった。
「ああ。勝手な頼みだけれど、そう思ってる」
「そっか・・・」
ラトはふっと笑い、僕の方へ歩み寄る。
「いいよ。寂しがり屋のリツさんのために、ここにいる。戦争が終わるまで、ね」
調子を取り戻したように、ラトの声は明るくなった。
そのとたんに、僕は小さく安堵の溜息をついていた。
それと同時に、自然に口端が緩んだ。
「リツさん・・・!」
突然、ラトが目を丸くして僕を凝視する。
何に驚いているのかはわからないけれど、まるでとても珍しいものを見たような、そんな雰囲気があった。
「今日は一緒にいよう、リツさん。いつ戦争があるかわかんないんだしさ。
・・・言っておくけど、一緒にいることを望んだのはリツさんなんだからね」
ラトは嬉しそうな笑顔を浮かべ、僕の腕を掴んだ。
「ラト・・・ありがとう」
僕は、心からの感謝の言葉を告げた。
ラトが僕の勝手な我儘を聞き入れてくれて、まだラトと共に時間を過ごせることを、幸福に感じていた。
誰かと共に居られることが、幸せだと思う。
それは、今までの僕にはない、暖かな感情だった。
―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
次の一話を書いたら、番外編に突入する予定です。