軍事国家5
朝、僕は寒気と共に目を覚ました。
布団はちゃんと体にかけられているし、今の季節はそれほど寒くもない。
もしかして、昨日大雨で体を冷やされたことがまずかったのだろうか。
制服に着替えるときも、部屋の空気がいつもより冷たく感じ、また寒気を覚えた。
これは、風邪のひき始めかもしれないけれど、演習を休むわけにはいかない。
一緒に訓練を受ける相手が休んだら、ラトに迷惑がかかる。
遅刻のことをさんざん言われてきたから、休んだらどんな悪態をつかれるかわかったものではない。
やや体がだるくとも動けないほどではないので、僕は演習場へ向かった。
演習場には、まだまばらにしか人がいなかった。
いつも先に来ているラトもいない。
辺りを見渡したが、彼も来ていないようだった。
さっきから、だんだんと体が重たくなってきている気がする。
今日だけは、早く演習が始まり、早く終わってほしいと思った。
「あれ、リツさんがボクより早く来てるなんて、めずらしー。今日、雪でも降るんじゃない?」
気付くと、いつの間にかラトが隣にいた。
人の数も増えていて、思考が働いていないのか、全く気付かなかった。
「毎回そうしてくれれば助かるんだけど。最後に来られちゃ、寝坊したんじゃないかってハラハラするんだよ」
「ああ・・・」
ラトの長い言葉に、生返事を返す。
長い羅列の言葉を、脳が処理しようとしない。
風邪の進行は思った以上に早く、体の重さは増していた。
「そうだ、今日午後からボクと模擬戦しない?遠距離の相手と戦う、いい訓練になると思うよ。
体にいくつか痣ができるかもしれないけどね」
「・・・ああ」
僕は再び、生返事を返す。
適切な答えを考え、返事をするのが億劫になっている。
「・・・リツさん?」
ちらと隣を見ると、ラトが怪訝そうな表情をしていた。
いつにも増して無愛想な様子を、訝しんでいるのだろう。
そこで、ラトは僕の方へ手を伸ばしてきた。
「これより、演習を行う!」
突然響いた上官の声に驚いたのか、ラトはさっと手を引っ込めた。
「では、最初の二組、前へ」
珍しく前列に並んでいた僕等は、一番初めに模擬戦をする。
この一戦さえ終われば、後は休んでいられる。
僕は重たい足を動かし、中央へ進んだ。
隣から、ひしひしとラトの視線を感じる。
相手が戦いに支障をきたして、自分に迷惑が降りかからないかと懸念しているのだろうか。
だが、無様な所は見せたくないと、無理矢理にでも体を動かした。
「それでは、始め!」
開始の合図に、僕ははっとして相手を見据える。
ラトは援護のために、身軽な動作で後ろへ飛ぶ。
僕は切りかかってくる刃を、とっさに抜刀して防いだ。
いつもより、刀が重い。
油断をすると、膝が崩れてしまいそうになる。
早く模擬戦が終わってほしいと思っても、自分から切りかかることができない。
僕は防戦一方で、相手の太刀を防ぐしかなかった。
背後では、軽い銃撃音が聞こえてくる。
パートナーの様子がおかしいと感づき、ラトが自分に注意を向けさせようとしているのかもしれない。
おかげで何度か相手が怯み、切り込むチャンスが訪れる。
しかし、とっさの一歩が出ない。
なるべく動きたくないと、体が主張しているかのようだ。
そして、だらだらと戦闘は続いていった。
「そこまで!」
終了の合図に、それぞれの動きがぴたりと止まる。
早く終わらせたいと思っていたが、とうとう制限時間まで粘ってしまった。
模擬戦が終わると、僕は足を引きずるように動かし、壁にもたれかかった。
無理矢理体を動かしたせいか、だいぶ息が荒くなっている。
許されるのなら、床に寝転がってしまいたかったが。
上司から咎められかねないので、壁に体重を預けるだけにしていた。
「リツさん、今日、何か変だよ。何回もチャンスあったのに全然攻めないし、もうじれったいったらないよ」
僕はちらりと横目でラトを見るが、もはや返事をするのも億劫になっていた。
「息もあがってるし、いつも以上に無愛想だし、急に体力なくなっちゃったみたいで、何だか・・・」
「・・・少し、一人にしてくれないか」
やっと言った言葉は、拒否の言葉だった。
今の状態では、ラトとまともに会話をすることができない。
それは、相手に無駄な労費をさせることに等しい。
それなら、一人でぼんやりとさせてくれと。
そういう意図があっての発言だったが、それを説明する気力はなかった。
「・・・あ、そう。いいよ、それじゃあ一人で息荒げて、いつもの彼でも見てればいいよ。
無駄話ばっかりするうるさい奴はむこうへ行くから」
ラトの口調はいらつきを含んだものに変わり、早足で離れて行った。
邪険に思って言ったわけではないのに、本当の意図は伝わらない。
何とかして誤解を解きたかったが、ラトはあっという間に遠くへ行ってしまう。
それを追いかける体力は、残っていなくて、溜息をつき、じっと演習が終わるのを待った。
早くに模擬戦が終わったからか、演習がとても長く感じた。
最後の組が終わった瞬間、僕は一番に外へ出た。
そして、一直線に自室を目指し、部屋に入ったらソファーに倒れ込む。
ベッドもすぐ近くにあるのだが、少しでも早く横になりたかった。
クッションを枕代わりにして寝転がると、壁にもたれているよりかなり楽になる。
けれど、ぼんやりとした状態は続き、体も重たいままで、僕は静かに目を閉じた。
それから、何時間経っただろうか。
今度は寒気ではなく、何者かの足音で目を覚ました。
誰が入ってきたのかと、体を起こす。
その人物は僕が起きたのを見ると、すぐに駆け寄ってきた。
「リツさん」
最も聞き覚えのある声に、警戒心が解ける。
部屋にいた人物は、演習のとき不機嫌にさせてしまった相手だった。
「リツさん、立てる?ソファーなんかで寝てないで、ベッドに行こう?」
ラトが怪訝そうな表情で問いかけ、肩を貸そうとする。
僕は遠慮なくラトに支えられつつ立ち上がり、ベッドに腰掛ける。
体はまだ思いが、休んだからか少しはましになっていた。
支えがいらなくなると、ラトはさっと離れて行った。
やはり、朝のことで怒っているのだろうか。
だが、予想とは裏腹に、ラトはすぐに戻ってきた。
「喉、乾いてるでしょ」
目の前に、一杯の水が差し出される。
確かにかなりの喉の渇きを感じていたので、それを受け取ると、一気に飲み干した。
何の味気もない水が、今はとても甘美なものに感じられる。
「何か食べる?もう、食堂にはあんまり人がいないから、ここに持ってこられると思うよ」
「いや・・・いい」
時計を見ると、時間はもう昼を過ぎていた。
いつもならとっくに昼食を食べ終えている時間だが、全く食欲がわいてこない。
今なら、彼と行った店のケーキを出されても、断ってしまうだろう。
「そっか。じゃあ、横になって」
ラトに促されるまま、ベッドに横たわる。
柔らかい枕と毛布の感触で、また少し楽になる感じがした。
ラトは椅子を持ってきて、ベッドの隣に座る。
「古典的なことしかできないけど、ないよりはマシだから」
そう言って、ラトは僕の額の上にタオルを乗せた。
冷たくて、とても心地良い。
「・・・怒ってたんじゃないのか・・・」
「・・・まあ、ね」
そう一言言って、ラトは大きな溜息をついた。
「・・・まったく、体調悪いんなら悪いって、素直に言えばよかったんだ。
最初から何かおかしいと思ってたけど、無理して模擬戦までしてさ。
我慢してれば、誰にも迷惑かからないなんて思ってた?」
まさに思っていた通りのことをまくしたてられ、僕は閉口した。
誰にも知られなければ、迷惑をかけることもないと思っていた。
けれど、実際こうして手間をかけてしまっている。
ラトに続いて、僕は自分自身に対して溜息をつきたくなった。
「いっそのこと、演習の時倒れちゃえばよかったんだ。それなら、模擬戦の前に医務室に行けたのに。
なのに、こうしてボクの世話になっちゃってさ、午後からトレーニングしようと思ってたんだけどな」
ラトは急に調子を取り戻したかのように、饒舌に話す。
まるで、朝話せなかった分を発散させているようだ。
「・・・それなら、何で僕の部屋にいるんだ・・・?」
その問いに、ラトは少し間を開けてから答えた。
「・・・食事の時間にさ、今日は皿にケーキ乗せてる人がいないなって、珍しく思ったから。
もしかしたら、部屋でいいものでも食べてるんじゃないかと思って覗いてみたんだよ。
そしたら、ソファーでぐったりしてるとこを見つけたわけ。
・・・そのままにしておくほど、ボクは薄情者じゃないし」
そう言いつつ、ラトは僕の額の上のタオルを取った。
そして、どこかへ行ったかと思ったらすぐに戻ってきて、額の上にタオルを置き直した。
それはさっきよりも冷えていて、また心地良かった。
「冷やしてきてくれたのか・・・」
よほど冷たい水を使ったのか、ラトの手は赤くなっている。
それがいたたまれなくなり、僕は何かを考える前にラトの手を取っていた。
「っ!」
突然手を掴まれたことに驚いたのか、ラトがたじぐ。
やはり手はかなり冷たくなっていて、今の僕にとっては快適な温度だった。
逆に、ラトにとっては僕の高い温度が快適なものだと思う。
だから、僕はラトの手を両手で包みこんだ。
世話をかけた労に、少しでも報いるように。
「リツ・・・さん・・・」
この状況に困惑しているのか、困ったような声で名を呼ばれる。
冷たかったラトの手が、だんだんと温かくなってゆく。
僕はもう片方の手も温めようと、一旦手を離した。
しかし、その手を掴む前に、ラトはさっと身を引いてしまった。
「・・・あのさ、リツさん・・・・・・。
・・・ボク、お腹減ったし、何か食べてくる・・・から」
ラトは先程とはうってかわってゆっくりとした口調でそう言い、部屋から出て行ってしまった。
時計を見ると、まだ夕方にもなっていない時刻だったが。
あまり昼食を食べていなかったのだろうかと、僕はラトが出て行った理由に疑いを持たなかった。
そういえば、朝から何も食べていないことを思い出す。
徐々に回復してきているのか、今では空腹感を覚えていた。
だが、食堂まで歩いて行くのは億劫で、空腹感をごまかすために寝てしまおうと、僕は目を閉じる。
その瞬間、扉が開く音が聞こえてきて起き上がった。
「リツ」
今度は、別の人物の聞き慣れた声が聞こえてくる。
「・・・ハルさん」
彼は僕の様子を見ると、こちらに歩み寄り、ラトが残していった椅子に腰かけた。
「・・・すまない。昨日、オレが連れ出したばっかりに」
「ハルさんのせいじゃありません。抵抗力のない僕の責任ですから」
同じ雨に濡れたというのに、彼は元気そうにしている。
だから、この熱は誰のせいでもない、自分自身の免疫力の問題に違いなかった。
「演習のときから、どこか調子が出ていないと思っていたんだ」
彼は怪訝な表情をした後、ふいに手を伸ばし、僕の頬へ触れた。
前に体に触れられたときを思い出してしまい、わずかに身が固くなる。
「・・・結構熱いな。これだと、朝から何も食べていないんじゃないか」
この体温で食堂に行くのは無理だろうと察したのか、図星をつかれた。
「・・・はい。食べてません」
「適当に何か取ってくるよ。丁度、オレも小腹が空いていたところだし」
「あ・・・じゃあ、お願いします」
僕が軽く頭を下げると、彼は部屋から出て行った。
あまり世話をかけたくないという思いはあったが、今の申し出は正直ありがたかった。
一人でいたら、今日一日何も食べなかったかもしれない。
そして、そう言ったのがラトだったら、これ以上世話はかけまいとして、やせ我慢をしていたかもしれない。
けれど、彼の提案には易々と乗ってしまう。
格上の相手である彼に、無意識の内に甘えてしまっているのだろうか。
そうこう考えている内に、彼がトレーを持って帰ってきた。
「できるだけあっさりしたものを選んできたけど、食べられそうか?」
トレーに乗っているのは、薄い色をしたスープと、果物の盛り合わせ。
これで、カレーとか納豆とか味の強いものを出されたらどうしようかと思ったが。
これなら、楽に食べられそうな感じがした。
「ありがとうございます。いただきます」
スープの器を持ち、大きめのスプーンを使って飲む。
あっさりとしていても、ちゃんと味がついていて食べやすい。
そうして食事をしている間、彼に見られていることが少し気になったが。
むこうを向いていて下さいとは、失礼な気がして言えなかった。
おいしいことはいいのだが、風邪のだるさからか、器がとても重たく感じる。
その重さを早く減らすために、スプーンを口へ運ぶペースは早かった。
「少しは食欲があるみたいだね。良かった」
その早さが目についたのか、彼は安心しているようだった。
そうして心配してくれたのだと思うと、ほのかに喜びを感じている自分がいた。
今まで、こうして隣について心配してくれる相手など、いなかったから。
重たい器が空になると、すぐにそれをトレーに置く。
次に果物を食べようかとフォークを取ろうとしたのだが、トレーの上にはなかった。
「まだ、腕を動かすのもだるそうだから、食べさせてあげるよ」
いつの間にか、フォークは彼が持っていた。
「食べさせるって・・・そんな、子供じゃないんですから」
「こんなの、手間の内に入らない。ほら、口を開いて」
聞く耳を持たないとはこのことか、彼は一口大に切ってある林檎を目の前に差し出した。
大人しく口を開くとすぐに林檎が運ばれ、それを噛みしめる。
果汁が口内に広がり、さわやかな甘さを感じた。
それと同時に、羞恥も。
「はい、次」
今度は、皮を剥いた蜜柑が差し出される。
林檎を飲み込んだ後、僕はまた口を開き、同じように噛みしめた。
この年にもなって、相手にものを食べさせてもらうのは、予想以上に恥ずかしい。
フォークを奪ってしまえばいいことなのだが、楽しそうにしている彼を見るとそうできなかった。
やがて残り1つになり、これで羞恥を感じることもなくなると安堵する。
最後の林檎は少々大きくて、噛んだ瞬間に口端から果汁が零れる。
租借し終わった後に袖口で拭おうとしたが、ふいに腕を掴まれて阻止された。
どうしたのだろうかと、彼を見る。
すると、彼は僕の口元に顔を近付け、自身の唇で、零れた液を拭い去っていた。
「っ!?」
口元に触れた感触に怯み、反射的に身を引いた。
彼はすぐに離れたが、視線はじっと僕を捕らえていた。
驚きのあまり目が見開かれ、混乱する。
今、確かに口付けられた。
口を重ね合わせたわけではないので、そうは言えないかもしれない。
けれど、確実に、彼の唇が触れた。
どうして、なぜ、彼はそんなことをしたのか。
口端から零れた果汁を拭い取るためなら、袖口で拭ってしまえばいいだけのことだ。
「・・・どうして・・・したんですか、その・・・」
疑問が湧き上がり、問わずにはいられなくなる。
「滴を拭うため・・・なんて説明じゃあ、納得しないよな」
彼は再び、手を伸ばしてくる。
届いた指先はそっと唇へ添えられ、驚きからか、緊張からか、一瞬息が詰まった。
彼が目をすっと細め、ベッドに乗り上げ、近付いてくる。
指が離れると、引き込まれてしまいそうになる視線に見詰められた。
逸らすことができない。
真っ直ぐに見詰めてくる、その瞳から。
彼との距離がだんだんと狭まり、お互いが、重なろうとしていた。
「リツさん、いるー?」
重なろうとしていた、その瞬間。
声と共に扉を叩く音が聞こえ、僕ははっとして、音の方へ視線を向けた。
「・・・ああ、そうだった。自分の部屋の癖で、鍵を閉めてしまったんだった」
彼はいたって平静な口調でそう言い、ベッドから下りた。
我に返った僕は平静でいられるわけもなく、脳裏は疑問で溢れていた。
今、彼は、重ね合わそうとしていた。
お互いの唇を、自然な動作で。
なぜ、何のためにそんなことをしようとしたのか。
僕は、言葉に発することなく問いかけるが、答えは出なかった。
「早く治したほうがいい。もうすぐ、召集がある。・・・そんな気がするんだ」
言葉半分にしか聞けなかった僕は、黙って視線を逸らして。
今の僕の頬は、風邪による熱だけではなく、他の要因でも赤くなっているに違いなかったから。
―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
連載中、一回は入る風邪ネタでお送りしました。
ここから少し、急展開になってゆきます。
私は801と言っても、やまあり、おちあり、いみあり、な小説を目指しているので・・・
いや、どれか一つくらい抜けてるかもしれませんが。