番外日本編 #2

―微妙な擦れ違い―


目を覚ますと、僕は部屋に一人でいた
菊さんは早起きだと知っていたので、驚くことはなかった
僕は少し重いまぶたを開き、身だしなみを整えて菊さんの姿を探すことにした


家の中をうろうろとしていると、居間からいい匂いがただよってきた
食欲をそそらせるような香ばしい匂いに釣られ、僕は迷わず居間へ続く襖を開いていた

「お早うございます。丁度、朝食の支度ができたところなんです」
菊さんは割烹着姿で、テーブルの上に二人分の焼き魚を並べているところだった

「お、おはようございます」
菊さんのその格好は、とてもよく似合っていたので僕は驚いた
いつもの凛とした姿とはかけ離れているものだったが、なぜか惹かれていた
僕は料理をよそに、菊さんをじっと見詰めてしまっていた

「冷めない内に、食べましょうか」
「あ、はい」
僕は視線を逸らし、日本風の朝食をいただくことにした

こうして世話になっていると、ますます自分も何かしなければと思ってしまう
昨日は、ただ名前を呼んでほしいと言われただけで、役にはたっていない
でも、家事に関しては菊さんの手際が良すぎて手伝うことがない
料理に関しても、今食べているこの味はどうやって出せばいいのか、さっぱり見当がつかない
僕にできることは、食事の際の皿運びぐらいだった
そして食事の後、自分にできることがさっぱり思いつかなかった僕は、もう一度尋ねてみることにした

「菊さん。何か、してほしいと思うことはありませんか?」
食器を片づけつつそう尋ねると、菊さんはくすりと笑った

「リンセイ君は、本当に礼節を重んじるお方なのですね」
それを教え込まれたのは、他国を油断させるためだとは決して言えない
だが、その教えのおかげで菊さんに好印象を持たれたことは、上司に感謝すべきことだった

「では・・・また、頼み事があるのです。少々、面倒なことかもしれませんが・・・」
「何でも言ってください。僕は、菊さんに報いたいんです」
僕は、また菊さんが喜ばしく思ってくれることをしたかった
そこには、僕自身が満たされたいという偽善的な理由もあったけれど
親切にされっぱなしということが、落ち着かないこともあった

「ありがとうございます。では、こちらに来ていただけますか」
僕は言われたとおり、菊さんの後をついていった




大きな箪笥のある部屋で、菊さんは歩みを止めた
そして、菊さんは箪笥から一枚の服を取り出した

「お手数だとは思いますが・・・これに、着替えていただけないでしょうか」
菊さんに手渡されたものは、上下一体になっている楽そうな服だった

「そんなことで良いのなら。すぐに着替えてきます」
これは、どこかの文献で見たことがあった
確か、着物というものだっただろうか
服と一緒に、太い帯も手渡された
どちらも落ち着いた色合いで、手触りが良かった
僕は隣の部屋へ移動し、早速その着物に着替え始めた


最初は勝手がわからず、服を裏返したり逆さまにしたりしていた
それでも何とか着ている形にすることはできたので、さっきの部屋へ戻った
しばらく待っていてくれたのか、菊さんはまだその部屋に居た

「どう・・・でしょうか。初めて着るものなので、おかしいところがあるかもしれませんが」
そう尋ねたのだが、菊さんは僕をじっと見て黙っていた
やはりどこか変なところがあるのかと、僕は自分の服装を注意深く見た
と、いっても、正しい着方を完璧に知っているわけではないので、それはほとんど無意味な行動だった

「あ・・・もしかして、似合ってないですか?」
僕にはこの服装が不釣り合いすぎて、だから菊さんは申し訳なくて何も言えないのかもしれない
だから僕は、そう言われても仕方ないというような軽い口調で尋ねた
その言葉を聞いた菊さんは、はっとしたような表情を見せた

「あ、い、いえ、違うんです。とても、よくお似合いで・・・少し、呆然としてしまったんです」
菊さんは、少し慌てた様子で弁明した

「そうですか?ありがとうございます」
以前の僕なら、そんな褒め言葉は社交儀礼でしかないと、そう受け取っていたと思う
でも、今は褒められて素直に嬉しいと思える
菊さんが、この姿を認めてくれた気がして
そのことに僕は、安心感も覚えていた

「あの、もしよろしければ、これから散歩にでも行きませんか?今日は、天気も良いことですし」
「はい。喜んでお供させてもらいます」
僕が笑顔で答えると、菊さんも微笑みを返してくれた
僕は、その微笑みだけでもう充分なはずだった
だが、突然僕の中に何かもやもやとしたものが湧き上がってきた
菊さんの笑顔を見ることができて喜んでいるはずなのに、何か別の感覚がある
それは悪いものではないように思うけれど、はっきりとはしないでいた
そのもやもやは、玄関に移動したときまでついてきていた




「リンセイ君、履物はこれをどうぞ。着物に、よく合うものなんです」
玄関に用意されていた履物は、見たことのないものだった
それは独特な形をしていて、指をひっかける紐のようなものが結わえられていた
僕がじっとその履物を見ていると、菊さんが説明してくれた

「それは下駄というもので、私の家には古くからある伝統的な履物なんです」
「そうなんですか。珍しい形をしていますね」
靴底は平らではなく、二個の出っ張りがあった
僕はその下駄という履物をはいてみたが、早速バランスを崩しそうになった
どうやら出っ張りのおかげで、あまり前や後ろに体重をかけてはいけないように作られているらしかった

「大丈夫ですか?履き慣れない内は、落ち着かないかもしれませんが・・・」
少しよろめいたところを見られていたのか、そう懸念された

「大丈夫です。バランス感覚はまあまあありますから、心配ないと思います」
常に重心を意識して歩いていれば、そう苦にはならなさそうだった
これで徒競走でもしようものなら話は別だが、散歩ならば何ら問題はないように思えた

「もし疲れたら、遠慮なく言って下さいね。では、行きましょうか」
僕は、扉の溝につまずかないように注意して外へ出た


僕は、菊さんの隣に並んで歩いていた
しばらくは注意深く歩いていなければならなかったが、ほどなくして自然に歩けるようになっていた
歩みを進めるたびに、二人分の下駄が鳴る音が耳に届く
足音を潜めようにも潜めようがない、自国では無縁の履物だと思った
だが、ここでは足音を潜めなくてもいいんだと言われている気がして、どこが気楽だった

散歩中、菊さんは何となく口数が少ないような気がしたが、僕から多く語りかけることはしなかった
静かな空間もまた、僕にとっての癒しだったから
さっき感じたもやもやとしたものは、いつの間にか消えていた



散歩はそんなに遠くまで行くわけではなく、一時間もしない内に終わった
それは、下駄に慣れていない僕を気遣ってのことかもしれなかった
そんな無言の気遣いが、菊さんをとても優しく見せていた
しかし、正直なところ普段歩くより疲れているのは事実だった
僕はそろそろ、だらしなくとも足を投げ出して休みたいと思っていた

そして、玄関口へ入ろうとしたとき、油断してしまった
家が見えたことで気が抜けたのか、僕は扉の溝にみごとにひっかかってしまった

「あ・・・」
僕はバランスを崩し、前につんのめった
そのまま倒れるだけなら、別によかった
だが、僕の目の前には、先に玄関へ入っていた菊さんが立っていた
このままでは巻き込んでしまうと思ったが、安定しない下駄では踏み止まることができない
僕は心の内で謝りながら、そのまま倒れていった



地面にたたきつけられる衝撃は、襲ってこなかった
かといって、菊さんを下敷きにしてしまったような感触もなかった
倒れるはずだった体は、今は安定を取り戻していた


「・・・リンセイ君。大丈夫・・・ですか・・・?」
頭の上から、声が聞こえた
そして僕の体は、菊さんによって抱き止められていた
僕は膝を曲げ、いつの間にか菊さんに寄りかかる形でバランスを保っていた
自分より大きな者の体重を支えるのはかなりの力がいるのか、背中には菊さんの両腕が強くまわされていた

我に返ったとき、僕はとたんに心音の高鳴りを感じた
菊さんが、こんなにも強く僕を抱き止めてくれている
そのことを思うと、もうしばらくこの腕の中に留まっていたくなった
だが、それでは菊さんの負担になるばかりなので、僕は菊さんの両肩に手を置いて直立した

「あ・・・ありがとうございます。受け止めてくださって・・・」
僕の言葉は、自分でもわかるほど緊張気味になっていた
もう、菊さんは緊張して、警戒するような相手ではないのに
なぜか今になって、僕には緊張感が蘇ってきていた

「い、いえ、とっさのことだったので・・・あの、つい、反射的に・・・」
菊さんの言葉は、珍しく歯切れが悪かった
そこからは何か遠慮しているような、戸惑っているような、そんな雰囲気が感じられた
僕はそれを不思議に思いながらも、菊さんを見下ろす形でいた
菊さんも、僕をじっと見上げる形のまま静止していた


このまま、僕が身を屈めてしまえば
そうしたら、触れ合わせることができる
そんな考えが、ふと脳裏をよぎった

しかし、ここで突然そんなことをしてしまっては無礼にも程があると、すぐに考え直した
だけど、僕は菊さんの肩から手を離すことはしなかった
身を屈めて触れ合わせることはせずとも、どこかに触れていたいと主張するかのように
離れてしまうのは名残惜しいが、触れ合ってしまうのは失礼なことかもしれない
そんな葛藤が渦巻き、僕はそんな状態のまま自分を動かせずにいた

眼下にいる菊さんも、もしかしたらそんなことを思っているのだろうか
だから、じっと視線を合わせたまま、動けずにいるのだろうか
どのくらいそんな時間が続いてゆくのだろうと思ったとき、菊さんが行動した

「あ、あの、そろそろ、夕食の支度をしてきますね」
菊さんはそう言うとぱっと僕から離れ、家の奥へ行ってしまった
思わず手を伸ばしそうになったが、引き留めることはしなかった
掌には、ずっと菊さんの肩に触れていた感覚がまだ残っていた
そして、僕の中にはまたもやもやとしたものが湧き上がってきていた

さっきまでどこかへ消え失せていたと思っていたのに
菊さんが離れたとたん、それはまた蘇っている
それは、今まで同盟も合併もしてこなかった僕にとってはほとんど無縁のものだった
だから、それが一体何を示しているのかなんて、今は気付く由もなかった




―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
イタリアに比べてかなり謹んでいるので、じれったい文章になっています
やっとこさ続きが考えられてきたので、更新していきたいと思います