異常疾患1


最近、街で狂犬病がはやりかけている。
飼い犬はともかく、野良犬が感染することが多い。
動物同士で争っているのか、人気のない路地裏に行けば、たいてい血痕がお目にかかれる。
今は、あまり騒がれてはいないものの、このままでは蔓延する可能性は高い。
そうなる前に対処するのは、保健所の仕事でもあった。

周りがしんと静まり返った夜道を、男性は落ち着き払った様子で歩む。
大通りを避け、わざと人気のない道を選んでいた。
足音をひそめて警戒しつつ、暗い路地裏を進んで行く。
そうして、大通りからだいぶ離れた先で、異様な気配を感じた。
同時に、風に乗って鉄臭い匂いも漂ってくる。
男性は確信し、息を飲んだ。


「・・・誰?」
闇の中から、ふいに呼び掛けられる。
近付いてきたのは、恐ろしい形相をした狂犬、ではなく、少年だった。
男にしてはかわいい系の部類に入るであろう、大人しそうな印象を受ける。
けれど、右手に握られている包丁を見た瞬間、その印象はすぐに変わった。
包丁には、赤黒い液体が滴っていたから。
予想外の相手に遭遇して、言葉を失う。

「もしかして、ヤトの代わりにパートナーになってくれる人?」
パートナー、と言われて、男性は内心驚く。
「・・・ああ、そうだよ。そうじゃなきゃ、わざわざ深夜に路地裏なんか来ない」
肯定しておかなければ、その包丁が自分に向けられるかもしれない。
嘘八百もいいところだったけれど、保身に走った。

「そっか、そうだよね。来てくれてよかった、寂しかったんだ」
少年は、安心したように頬を緩ませる。
おそらく、同年代だと見られているのだろう、自分が童顔でよかったと、初めて思った。

「せっかく来てくれたけど、今日はもう終わっちゃったんだ。
このまま帰る前に、ボクの家においでよ。トモダチ、紹介するから」
「あ、ありがとう」
断る理由がとっさに思いつかず、お礼を言ってしまう。
男性は、狂犬の処理のために持ってきた注射器の場所を確かめた。

「嬉しいな、ヤト以外の人が来てくれるなんて。さあ、行こう・・・」
少年は手首を掴み、待ちきれないように引く。
逃がさないようにしているのか、それとも、本当に喜んでいるのか。
薄闇の中で少年の頬がまだ緩んでいるのを見ると、後者であってほしいと願った。


少年は路地裏ばかり選んで進むものだから、もう帰り道がわからなくなる。
手首はずっと掴まれたままで、逃れる余地はなかった。
「着いたよ」
少年が足を止めた場所は、完全な廃墟だった。
外観は寂れていて、窓はほとんど割れている。
本当に人が住めるのかと疑ったが、少年は平然と中へ入って行った。

「・・・何も見えないけど、本当に、ここに住んでるのか?」
「うん。もうすぐ、トモダチが出迎えてくれるよ」
ふいに、少年が口笛を吹く。
すると、人気のなかった室内に、突然無数の視線を感じた。
四方八方から、見られている。

緊張のさなか、奥の方にぼんやりとした光が浮かぶ。
だが、それを運んでいる者の姿は見えず、ぞっとした。
「ありがとう、来てくれて」
少年が呼び掛けると、光は速度を増して近寄ってくる。
足元に来た光を見下ろすと、黒猫がランプをくわえていた。
少年はランプを受け取り、猫の頭を撫でる。
どうりで遠目では見えなかったはずだと、拍子抜けした。


「みんな、おいで」
その呼び掛けを合図に、無数の視線が向かってくる。
闇の中でも光るその目は、まさしく猫目だった。
足元には、瞬く間に何匹もの猫が寄ってきて、様々な声で鳴いている。
友達とは猫のことだったのかと、また気が抜けた。

「ボクのトモダチだよ。みんな、一緒なんだ」
「かわいらしい、友達だな」
素直な感想を言うと、少年は目を細くして笑う。
包丁さえなければ、普通の、あどけなさを残した少年に違いなかった。

「こっちが、ボクの部屋だよ」
少年が歩くと、猫は道を空けて、後ろをついてくる。
あまりに多くの視線は、煩わしいものだと思っていたけれど
人と違う無垢な視線は、悪くなかった。


案内された部屋も光がついておらず、ランプの明かりしかなかった。
少年がランプを棚の上に置くと、何とか部屋の様子が見える。
ベッドと割れた窓しかなくて、まるで独房のようだ。
「何か食べる?」
「いや・・・いい」
未だ警戒心が解けたわけではなく、緊張して胃が動かない。
まだ、少年の手には包丁が握られているのだから。
やんわりと断ると、手首を引かれて、ベッドに腰掛けるよう促された。
足元では相変わらず、猫達がうろついている。

「・・・そうだ、君はヤトに何て呼ばれてたんだ?
パートナーになったんだし、同じ呼び方のほうがいいんじゃないかな」
まさか、名前を知らないなんて言ったら、部外者だとばれてしまう。
以前のパートナーの名前が知れたことは、幸運だった。
「ジュンって呼ばれてた。君は?」
「ああ、僕は・・・」
一瞬、本名を言うか迷う。
けれど、次の瞬間には「ツカサ」だと答えていた。

「そっか、ツカサ・・・みんな、ツカサはボクの新しいパートナーだから、仲良くするんだよ」
ジュンがそう言ったとたん、猫がベッドに飛び乗り、手の匂いを嗅いでくる。
次いで、ざらりとした感触がして、掌が舐められた。
さして嫌なことはなく、じっと猫を見る。
すると、次々と猫がベッドに乗ってきて、好奇心旺盛に寄ってきた。
ジュンのパートナーだと、認めてくれたのだろうか。


「かわいいな・・・」
思わず、ぽつりと呟く。
すると、ジュンがずっと持っていた包丁を放り投げた。
金属が落ちた音に驚き目を向けたときには、猫が包丁をくわえて出て行っていた。
「猫、好き?」
「ああ、好きだよ」
速答すると、ジュンがじっと見詰めてくる。
そうして、猫と同じように体を擦り寄せてきた。

「よかった・・・ツカサが猫好きで」
急に距離が近くなり、肩にもたれかかってくる。
あまり人とスキンシップをしたことがないからか、さっきとは別の緊張感を覚えた。
「今日は帰る?それとも・・・」
ジュンが躊躇うように言葉を止め、こっちの様子を覗う。
どう言ってほしいのか理解してしまったとき、口が自然と動いていた。

「・・・ここにいるよ、パートナーになったんだから、ジュンのことが知りたいし」
そう答えると、ジュンはぱっと顔を輝かせた。
そして、すがるように肩へ腕を回してくる。
さっさと逃げ帰ればいいのに、すがるような視線に負けていた。

「ありがとう、ツカサ。トモダチも歓迎してくれてるし、一緒にいよう・・・」
周囲の猫達は、呼応するように鳴いた。
初対面でこんなにも懐かれるなんて、動物くらいのものなのだ。
けれど、こうして人に好かれるのも、嫌じゃなかった。

その日は、同じベッドで眠ることになった。
逃がさないための監視を含ませているのかもしれないが、ただの寂しがり屋のようにも思える。
眠っている間、ジュンはずっと腕にしがみついていたから。
そして、こんな環境で眠れた自分が意外だった。




気付けば朝になっていて、室内の様子がよく見える。
光があっても様子はさして変わらず、相変わらず殺風景だ。
体を起こすと、ジュンが薄目を開く。
すると、周囲の猫達も続々と起き始めた。

「おはよう」
「ん・・・よかった。まだ、いた・・・」
起きて早々、ジュンは真正面から抱き付いてくる。
無数の監視の目がある中で逃げられるはずはない、と言葉を飲み込みつつ
ジュンの背を、あやすように軽く叩いた。
猫達も寝起きの挨拶をしているのか、にゃあにゃあと鳴いている。

「今、ご飯持ってくるよ」
ジュンは部屋の外へ駆けて行き、すぐ戻って来る。
大皿にキャットフードをばらばらと注いで床に置くと、猫が一斉に飛びかかった。
「小分けにしなくていいのか?」
「うん、皆優しいから、くいっぱぐれることはないんだ」
よく観察してみると、確かに一匹が独占するのではなく、場所を交代しあって食べている。
野良なのによく飼いならされていると、感心した。

「これ、ボク達の分」
手渡されたのは、カロリーメイトに似た棒状の食品。
袋を開ければそのまま食べられる、何とも便利なものだった。
「ここ、ガスや電気は通ってないのか」
「うん。かろうじて水は出るけど、他は駄目」
下手すれば猫よりも簡素な食事を、もくもくと食べる。
特に文句があるわけではなかったが、ジュンは毎日こればかり食べているのだろうか。
痩せた体系からは、そんなことが想像できた。


「・・・ジュン、後で買い物に行かないか。パートナーになったんだから、僕も何かしたいんだ」
「いいよ。でも、人ごみは好きじゃないから、行ってきてほしいな」
何か事情があるのだろうか、ジュンは乗り気ではない。
「わかった、行ってくるよ」
簡単すぎる食事を終え、外へ出る。
そこへ、一匹の猫がついてきた。
監視役なのだろうと思ったが、先導して歩いて行く。
小走りでついていくと、ほどなくして大通りへ出ることができた。

「案内してくれたのか。ありがとう」
しゃがみこんでお礼を言い、頭を撫でる。
猫は一鳴きして、路地裏へ駆けて行った。
大通りに出ると、保健所へ足が向く。
けれど、その歩みは数歩で止まる。
気付けば、ペットショップに向かっていたのが自分でも不思議だった。


両手にいくつもの袋を持ち、路地裏へ戻る。
ずっと待っていたのか、そこには同じ猫がいた。
また、来た時と同じく先導してくれる。
複雑な路地裏の道案内はありがたく、難なく住処へ辿り着けた。

「ジュン、ただいま」
まさか、ただいまなんて言うことがあるとは思わなかった。
動物を保護する気持ちからだろうか、猫ともども少年を放っておけなかった。
「おかえり。何買って来たの?」
「ガスコンロと、懐中電灯と、レトルト食品と・・・あと、美味しそうなもの」
猫のマークが書かれている袋から、その美味しそうなものを取り出す。

「もしかして、トモダチのごはん?」
「ああ。ちょっと、奮発した」
そのキャットフードは、金文字でよくわからない英語が書いていて、高級そうな雰囲気が醸し出されている。
ペットショップ店主の一押しだったので、まずいものではないだろう。
その証拠に、箱を開けただけで、猫達が周囲に集まってくる。
まだ内袋に入っていても、その魅力を感じ取っているようだ。

「それ、トモダチにあげてみて。みんな、そわそわしてる」
「朝ごはん食べた後だから、少しだけな」
内袋を開け、皿に中身を落とす。
見た目は、ジュンがあげたものと変わり映えしない、ころころとしたキャットフードだったけれど
猫には違いが分かるようで、まっしぐらに向ってきていた。
あまりの早さに驚いて、思わずさっと立ち退く。
猫は一斉に皿の周りに集まっていたが、こんなときでも場所を譲っている猫がいた。

「すごい勢いで食べてる。高級品なんだ」
「それもあるけど、きっと店主の選別がよかったんだよ」
少ない餌はすぐになくなり、皿が空っぽになる。
すると、猫達が続々と足元に近付いてくる。
この勢いだと袋がかっさらわれそうで、すぐ箱にしまった。


「皆、お礼が言いたいんだよ。座ってあげて」
ジュンが箱を取り、座るように促す。
言う通りにしゃがみこむと、猫が足や肩に乗り、やわらかい鼻を押し付けてきた。
「くすぐったいよ」
髭が当たってこそばゆくて、自然と頬が緩む。
掌や首元をざらりとした舌で舐められると、小さな笑い声が漏れた。

「ツカサ、ヤトより懐かれてる。きっと、ツカサも仲良くしたいと思ってくれてるからだね」
「・・・人より、動物の方が好きだからかもな」
保健所に勤めていると、自然と、どんどん動物が好きになっていった。
気付けば、人よりも動物と接する時間の方が多くて、人付き合いは過疎になる。
それでも何も困らなかったし、動物たちさえいれば、それでよかった。

「ツカサもそうなんだ。ボク、猫が一番好きなんだ」
同類を見つけて、ジュンは嬉しそうに言う。
この笑顔を見るだけなら、素直な猫好き少年に思える。
けれど、赤く染まった包丁が脳裏をかすめると、まだ警戒心は拭えなかった。

「猫が一番のはずなのに、何でだろう・・・ツカサには、こうして擦り寄りたくなるんだ。
きっと、ツカサもボクに似て、大の猫好きだからだね」
ジュンが隣に座り、猫のように身を寄せてくる。
僕は、動物と接するように自然に、ジュンの髪を撫でていた。




―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
ユガンダココロのやんわりバージョン、甘えたがりで少しおかしい少年が書きたかったんです。