心の空白期間1(脳男という小説に触発されているので、似たような設定があります)
それは、人間というよりも、硝子のような無機物に近いものだと思った。
不用意に触れれば壊しかねず、はたまた自分が傷つきかねない。
ひとたび使い方を間違えれば、相手にも危害を加えるものになる。
実験体006Dは、初めて対峙する相手にそんな印象を与えた。
「アキヒロ君、これはとても重要な極秘実験だ。決して外部に漏らさないように」
「わかっています。1か月でいいんですよね」
白衣を着た初老の研究員の念押しに、アキヒロは快く答える。
承諾の言葉を聞くと、他の研究員が実験体の手錠を外した。
「006D、今日からお前はこのアキヒロと生活を共にすること、わかったな」
初老の男性が呼びかけると、実験体は目だけを動かしてアキヒロを見る。
そして、何も言わずに瞳の位置を正面に戻すと「はい」と返事をした。
「よろしい。では、アキヒロ君について行きなさい。よく言う事を聞くように」
「はい」
実験体は同じ音を再生したような返事をし、アキヒロの横につく。
「・・・まあ、これから、よろしく」
声をかけたが、実験体は何の反応も示さずただ前を見ている。
無視しているわけではなく、言葉の返し方がわからないだけだ。
これから、何もかもを教えなければならない。
アキヒロが研究室を出ると、実験体も無言でそれに続いた。
二人は商店街を歩き、アキヒロの自宅を目指す。
実験体と言っても異様な風体をしているわけではなく、普通の一般男性と何ら変わりない。
それが、また不気味なところだった。
お互いは、一言も会話を交わすことなく家に辿り着く。
アキヒロが鍵を開けて中に入り、玄関で靴を脱ぐ。
「鍵を閉めてくれ。それから、靴を脱いで上がって来い」
「はい」
実験体は鍵を閉め、靴を脱いで家に上がる。
リビングに入ると、アキヒロは緊張感を吐き出すように溜息をついた。
「ここが、今日からお前が暮らす家だ。今から、使い方を教える」
「はい」
アキヒロはまずトイレに移動し、扉を開ける。
「ここがトイレだ、もよおしたらすぐに使うこと。使い方は分かるか」
「はい」
大の大人相手に、アキヒロはいたって真面目な口調で話す。
理解したのを確認すると、他の部屋に移った。
「ここは僕の部屋だ。勝手に入らないこと」
「はい」
本当なら、禁止事項を伝えることはあまり意味を成さない。
この実験体が、好奇心で勝手な行動をすることはまずなかった。
その他にも、炬燵や水道、電気などいちいち使ってもいいことを許可して回る。
言われれなくともわかる、なんてことはこの実験体には通用しない。
とても面倒だったが、万が一のことがあったら責任を取らされてしまう。
1時間ほどであらかた許可し終わり、アキヒロはまた溜息をついた。
「いま思いつく使い方はこれくらいだ。わからないことがあったら・・・いや、また、後々追加する」
「はい」
この単調な返事を、もう何回聞いただろうか。
わからないことを質問しろ、と言っても答えないだろう。
本当に質問をしてきたら、日常的なことから高等数学まで全てを問われかねない。
この実験体は人並み以上の身体能力を持ち、見た目も平均以上でも、重要なものが欠落していた。
実験体には喜怒哀楽といった感情がなく、自分の意思も持たない。
課された仕事は、共に日常生活を送ることで、感情の片鱗を形成することだった。
基本給とは比べものにもならない報酬が出て、観察期間の1か月間は残業もなければ研究所の仕事もない。
そんな誘惑にひかれて、つい引き受けていた。
毎日観察日記を書くことや、実験体にいちいち事柄を許可する面倒はあっても。
実験三昧の長時間労働よりは、だいぶ恵まれた仕事だった。
「これから外へ行くぞ。図書館の場所を教える」
「はい」
アキヒロが外へ出ると、実験体は靴を履かずに続こうとした。
「外へ出る時は、靴を履くんだ」
「はい」
今まで実験室の中にいたので、言われたことがなかったのだろう。
実験体が靴を履いて出てくると、アキヒロは扉を施錠して街へ出た。
図書館へ赴く間、実験体はしきりに目を動かして周囲を観察していた。
興味があるからではなく、初めて見るものは全て記憶するよう言いつけられているからだ。
今日は休日とあって、大型の図書館には老若男女様々な人が揃っていた。
実験体は本を選ぶこともなく、アキヒロの後をついている。
とりあえず、日常生活を送るにあたって覚えるべき法律を教えようと、アキヒロは分厚い本を手に取った。
「そこに座って、これを読むんだ。読み終えたら、本を閉じて待機しておけ」
「はい」
ノルは1000ページもある本を受け取り、指定された椅子に座って読み始める。
その速さはかなりの速読で、次々とページがめくられていった。
その間に、アキヒロは他の本を探す。
法律だけでなく、家事のことを教えておいても損はない。
掃除や洗濯の仕方を覚えて、自発的にするようになれば一番いいのだが。
それは、途方もなく先のことのように思えていた。
次の本を何冊か持っていくと、すでに実験体は動きを止めていた。
頭の中には、法律の一言一句全てがおさめられていることだろう。
「次は、この本を読んでおけ。読み終えたらまたじっとしているんだ」
「はい」
実験体は法律の本を読むときと変わらず、家庭科の教科書に使われそうな本を読み始める。
眉ひとつ動かさず、黙々とページをめくる様子は熱心な読書家のように見えたが。
アキヒロの目には、やはり奇妙なものとして映っていた。
その後は、ひたすら同じことを繰り返し続けた。
アキヒロが見繕ってきた本を実験体が黙々と読み、記憶させる。
何十冊もの本を読み終えたところで、閉館を知らせるアナウンスが鳴った。
「これが鳴ると、本を元に戻して外に出なければならないんだ。行くぞ」
「はい」
実験体が本を閉じ、本棚に戻す。
それを見届けてアキヒロが外に出ると、実験体も後に続いた。
家に帰っても、まだ教育は続く。
そろそろ夕飯の支度をしようと、アキヒロは台所に立った。
「今から食事を作るから、手順を見て覚えておくこと。冷蔵庫にある食材は使っても構わない」
「はい」
アキヒロは冷蔵庫から材料を取り出し、下ごしらえを始めようとする。
その前に、包丁を手に取って実験体に見せた。
「これは、料理をするとき意外は使わないこと」
「はい」
勝手に物に触ることはないのだけれど、どこで例外が発生するかわからない。
特に、人並み外れた力を持つ相手に、凶器の扱いは慎重に教えなければならなかった。
それからは、普通に調理を進めていった。
スープを煮込み、魚を焼き、米を炊く。
作ってみろと言えば、調理時間を一分一秒と間違えず、全く同じものができるだろう。
どれもアキヒロの好物で、こうして覚えさせておけば後々便利になりそうだった。
実験体は手伝う素振りを全く見せないまま、調理が終わる。
まるでプログラムのようで、指示されたこと以外は何もしない。
「料理が乗った皿を二枚ずつ炬燵へ運べ。運び終わったら、座椅子に座っておけ」
「はい」
アキヒロが言うと、やっと動き始める。
何の表情の変化も見せず、ただ指示されたことに忠実に従う。
人の形をしていても、これは完全なロボットのようだった。
実験体が座ると、アキヒロは正面に座る。
そこで、炬燵が温まっていないことに気づき、アキヒロが電源を入れた。
電源を入れてくれと言わなければ、どんなに寒くてもそのままでいただろう。
「気配り」という言葉を知っていても、それを使う意思がなければ何の意味も持たない。
食事を目の前にしても、実験体はただ前を向いたまま静止していた。
「もう、食べてもいい」
「はい。いただきます」
許可を与えると、実験体は箸を持って食事をする。
返事以外の言葉が返ってきたのは、自分の意思ではなくプログラムされたことなのだろう。
感想を言うこともなく、お互い黙ったまま食事をする。
一見気まずいように見えるが、おしゃべりな相手と接するよりは気が楽だった。
共に生活を送ると聞いて、最初は不安だったけれど。
余計なことをせず、会話もしない相手なら、一方的に指示できるので楽だ。
実験体は機械のように一定のペースを保ち、アキヒロと同時に食べ終わる。
「片付けるから、見ておくように」
「はい」
食事を終えると、アキヒロは早々に皿を流し場に持って行く。
スポンジに洗剤をつけて泡立て、皿を擦る様子を実験体はじっと観察していた。
図書館で家庭科の本を読ませたけれど、その通りやられたら洗い場が泡で埋まりかねない。
机上の知識を実践に移すには、どうしても、一回はこうして手本を見せることが必要だった。
いつも行っていることだが、手本を示していると思うとやや肩に力が入る。
そのせいか、皿がするりと手から落ちていった。
「あ・・・」
咄嗟に取ろうとしたが、間に合わない。
だが、皿が割れる音はせず、実験体が寸前のところで掴んでいた。
自発的に行動したのかと、一瞬目を見開く。
けれど、食事の合図と同じように、それも元々教えられたことに違いなかった。
実験体が、皿をアキヒロに差し出す。
「・・・次にするときは、皿を落とさなくてもいいからな」
「はい」
こう言って取り消しておかなければ、皿洗いをするたびに落としてしまう。
厄介な性質だったが、教え方を間違えなければ優秀なのだからと、多少の面倒には目を瞑った。
その後は、風呂に入らせ、布団を敷き、眠るだけになる。
流石に一緒に入浴するのは気が引けたので、指示するだけに留めたが、問題はなかった。
ただ、かなり細かく指示をしたので、アキヒロは疲労していた。
「僕はすることがあるから、お前は・・・お前、名前は付けられていたか?」
「006Dです」
それはただの識別番号で、研究所の外では意味を成さない。
それに、多少長くて呼びづらく、外では怪しまれる。
「製造番号以外の名前をつけないとな・・・お前は、何て呼ばれたい」
「特にありません」
意思を持たない実験体は、質問をされるとたいていそんな返事を返した。
「寝る前に、ネットで探しておく。もう眠っていいぞ」
「はい。お休みなさい」
布団に入って横になるのを確認すると、アキヒロは電気を消して部屋を出た。
1日目 図書館で読書をさせ、法律や日常生活に必要な知識を覚えさせた。
周囲の環境が変化しても反応なし、言われたことには従順に従うが自発的な行動はゼロ。
落とした皿を掴み、前もって教えられていたことを実行できていた。
日記のような報告書を書き、アキヒロはすぐに研究所へ送信した。
これから、実験体に変化が現れるかどうかは自分の指示にかかっている。
アキヒロは明日の予定を考えつつ、子供の名づけサイトを開いていた。
―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
脳男を見て思いついた、アンドロイドのような人間と研究者でした。
これから、どうやってフラグを立てていくか試行錯誤です。