心の空白期間2


翌日、アキヒロはとても気分よく目が覚めた。
睡眠時間を8時間もとれたのは何日振りだろうか。
朝支度をしてリビングへ行くと、実験体が直立不動で立っていた。

「おはよう」
声をかけると、実験体はアキヒロを見る。
「おはようございます」
無表情のまま答えると、再び前を向く。
現状ではこれ以上のことは望めないだろうと、アキヒロはそれ以上声をかけなかった。

水を飲もうと、台所へ立つ。
そこには、使用済みのコップが置かれていた。
昨日許可したことを守れているようで、とりあえずは安心する。
栄養失調や脱水症状で貴重な実験体を弱らせては、大目玉をくらってしまう。
水分補給をすると、朝食の前にアキヒロはノートパソコンを開いてメールを起動させる。
一番上には、研究所からの返信が来ていて。
嫌々メールを開くと、そこには文句しか書かれていなかった。

まず、読書は研究所で散々させたので他のことを行うこと。
様々な刺激を与えて反応を観察し、変化を与えるようにすること。
コミュニケーションを取り、応答の内容を報告すること。
こっちの苦労も知らずに要求だけを並べられ、朝の爽快感が吹き飛ぶ。
けれど、研究所の激務よりはましだとして、従うことにした。


他のメールチェックも終わり、ノートパソコンを閉じる。
アキヒロは、実験体の視線の前に移動した。
「なあ、お前の名前なんだが・・・ノルっていうのはどうだろう」
「わかりました。ノルですね」
拒否することなく、ノルは即答する。
意思を持たない相手に、どうだろうかと伺いを立てても無駄だった。

「じゃあ、朝食を作るから・・・」
そこで、アキヒロはふと思いついた。
自分が手本を見せるよりも、もっと効率的で楽な方法があると。
再びノートパソコンを立ち上げ、インターネットに接続する。
そして、手ごろなレシピを何枚か探し、プリンターに送って印刷した。

「ノル、これを作ってみてくれ」
アキヒロは、ノルに三枚のレシピを見せる。
「わかりました」
ノルはレシピを一瞥すると、それを持って行くこともせず台所に立った。
今の一瞬で用紙の全ての内容を記憶したので、邪魔になるだけだと判断したのだろう。

ノルはすぐに調理器具を準備し、冷蔵庫から食材を取り出す。
これなら、自分で作るのがどんなに面倒な料理でも食べることができる。
ロボットのような実験体でも、使いようによってはとても便利だ。
どんな難しい方程式よりも、家事を徹底的に覚えさせたくて仕方がなくなった。


後は何を指示せずとも料理が仕上がるはずなので、パソコンでレシピを検索し続ける。
昼食には何を作らせようかと、今から考えていた。
ノルは、調理時間を1分も狂わせることなく、分量に1gの差異も出さずに量る。
その途中で、ぴた、と動きが止まった。

「アキヒロさん、トマトがありません」
「えっ」
突然、ノルから話しかけられて画面から顔を上げる。
「あ、ああ、じゃあ、入れなくていいし、工程は飛ばしてもいい」
「わかりました」
アキヒロの指示を受けると、ノルは調理を再開した。

まさか、ノルが自ら言葉を発することがあるとは思わず、驚きを隠せなかった。
ただのエラーメッセージなのだけれど、それだけでも人らしさを感じる。
偶然とはいえ、報告書に書けることが一つ増えて幸運だった。



ほどなくして、調理の音が終わる。
アキヒロが台所を覗き込むと、卵焼き、サンドイッチ、コーンスープの3つが出来上がっていた。
「もうできたのか。じゃあ、盛り付けるから、順次炬燵に運んでくれ」
「はい」
それぞれを適当な皿に乗せると、ノルがすぐに運ぶ。
こうしていると連携が取れているようで、また少し人間味を感じていた。

料理は、意外性はないが安定性はある、平均的な味だった。
それでも、自分が作るよりは美味しく、アキヒロは満足していた。
ただ、卵焼きに付け合わせるトマトだけがない。
ノルは自発的に代替品を使うわけでもなく、臨機応変ということが全くできない。
けれど、人としての全ての能力が平均以上で、手本があれば何でもこなす。
ここに、自発的な行動が加わったことを想像すると、楽しみでもあったが怖くもあった。

食べ終わった後は、アキヒロが食器を台所へ運ぶ。
これも指示してもよかったが、何もかもさせてしまうと自分がとてもずぼらになった気がして嫌だった。
「ノル、皿洗いをしてみろ」
「はい」
昨日見せた洗い方を覚えているかと、確かめるために呼びかける。
ノルは流し台の前に立つと、昨晩と同じように食器を洗い始めた。
皿の数に対して多少洗剤の量が多かったけれど、そこは仕方がない。
途中で皿を落とすこともなく、昨日の修正事項が伝わっていたようだった。


片付け終わると、テレビの前に座るよう指示する。
ノルは足を引き寄せて床に座り、アキヒロは隣に座椅子を持ってきた。
「今日は、これからテレビを見る。番組内限定で、疑問に思ったことがあったら質問すること」
「はい」
本の知識だけでなく、多様なことを教え、反応を見たかった。
アキヒロがテレビを点けると、ちょうどニュースが始まった。

まず流れてきたのは、被告の死刑判決とその日程が決まったという物騒なもので。
どうやら小学生を殺害したらしく、不愛想な男の写真が映し出されている。
そこで、アキヒロはちらとノルを見たが、何の質問も飛んでこない。
頭の中には刑法の全てが詰まっていて、死刑になった理由も理解できているのだろう。

続いて、貿易や経済関連のニュースが流れたが、そこでもノルは無反応でいる。
質問がされなければあまり意味はないと、アキヒロはチャンネルを切り替えた。

次に映し出されたのは、料理番組だった。
フライパンで食材が炒められ、香ばしい音が鳴っている。
けれど、調理法を知っているノルにとって疑問点はないらしく、無反応のままでいた。
5分ほど待ってみて何も言わないとわかると、またチャンネルを切り替える。
それを何回か繰り返したが、ノルから言葉が発されることはない。
アキヒロはやや投げやりな気持ちになっていたが、とある番組でノルの眉がわずかに動いた。


「この人たちは、なぜ手を繋いでいるのですか」
「え?」
一瞬、呆気にとられて反応が遅れる。
画面には、二人の女子高生が笑い合いながら手を繋いで歩いていた。

「ああ、これは・・・友好の証だ。自分達は仲が良いんだと示すこともできるし、自己満足にもなる」
「わかりました」
今見ているのは、ニュースでも、教養番組でもなく、ドラマだった。
研究所で教わったのは実用的なことばかりで、フィクションは知らなかったのだろう。
もしかしたら、人の心情を描くことに特化したドラマが、ノルに感情の起伏を与えるかもしれない。
途中からなので話の筋はわからなかったが、最後までその番組を見続けた。

アキヒロの予測は的中していて、番組の途中でノルは何回も質問をしていた。
ヒロインと思われる女性が泣くと、「なぜ泣いているのか」と尋ね。
場面が変わってにこやかにしている様子を見ると「なぜ笑っているのか」と、人の感情に対する質問が多く成された。
話を全て見ていなくても、その場面からだいたいの想像はできるので、アキヒロは逐一答えていた。

「よっぽど、フィクションに興味があるんだな」
「はい。興味があります」
今まで、ノルは興味があろうがなかろうが一方的に教えられるだけだった。
自分から興味を抱いたものなら、どれくらいの学習効果が表れるのか。
これで、報告書の内容が充実しそうだと、アキヒロは満足気だった。



そのドラマは結構長く、終わった頃には昼食の時間になっていた。
「少し休憩しよう。目が痛い」
アキヒロはテレビを消して目を擦るが、ノルは平然としている。
いくら画面を見ても、読書をしても、疲れ知らずの目が羨ましい。
昼食はまた作ってもらおうかと思ったが、今からレシピを検索するのは面倒で。
それなら自分で作ったほうが早いと、台所へ立った。
すると、ノルは何も指示されずとも後ろにつき、調理を観察する。
無反応に見えてもちゃんと学習しているのだと、アキヒロは感心していた。

食事は簡単に、野菜を炒め、昨日の米を温めて卵をかけ、インスタントの味噌汁をつけた。
時間は10分程度しかかかっていない、とても手軽なものだ。
二人で炬燵へ運び、座椅子に座る。

「いただきます」
「はい、いただきます」
小ざっぱりとした食事に箸をつけ、野菜炒めを口にする。
結構味付けを大雑把にしたので、不味くはなくとも美味くもなかった。
それでも、ノルは文句ひとつ言わず、黙々と食べ進めている。


「・・・これ、うまいか?」
「はい、おいしいです」
即答され、アキヒロは目を丸くする。
ノルに味覚はあるが好き嫌いはないので、世間一般的な平均値を自分の判断のように告げるはず。
この料理は、ぎりぎり平均値を上回っていたのだろうか。
とてもそうとは思えないが、悪い気分ではなかった。

「午後は映画を見よう。パソコンですぐに買えるから」
「はい。ありがとうございます」
お礼の返事が返ってきて、アキヒロはわずかにほくそ笑む。
どうやら、人の心情を鮮明に描いた番組は予想以上の効果があるようだった。



食事が終わり、ノルが後片付けをしている間に、アキヒロはネットでDVDを選ぶ。
SFは説明できる自信がなく、ホラーは残酷な場面があるので避けたい。
同じ理由でサスペンスも避けていると、自然と恋愛ものが多くなった。
日常風景を描いたもののほうが感情に訴えやすいかと、純愛を描いた有名な映画を何本か購入しておく。
片付けが終わり、ノルが椅子に座りなおす。
離れていては画面が見にくいので、アキヒロは隣に座椅子を移動させた。

「じゃあ、再生するぞ。質問があったらするように」
「はい」
そうして映画を見始めたはいいものの、とにかく質問が多かった。
役者が泣いているにしても悲しいだけではなく、喜びのあまり涙している場面もあり、説明に手間がかかる。
さらに、主演だけではなくエキストラのことも聞いてくるので、だんだんと面倒になってきた。
これは、自分で考えさせる力をつけることが必要かもしれない。
1本の映画を観終わった後、アキヒロはパソコンの説明書を取ってきた。

「質問は一旦中止する。これを読んで操作を覚えて、端から動画を再生していくんだ」
「はい」
ノルは、手渡された分厚い説明書のページをめくり始めた。
ずっと画面を見続けていては、腰も目も痛くなってたまらない。
外へ出て散歩でもしようと、アキヒロは部屋を出る。
そのとき、ノルは一瞬だけ説明書から視線を外し、アキヒロの背を見ていた。


小一時間経ってから、アキヒロは数冊の本を持って帰って来た。
何も、人の心情を理解させる手立ては映画やドラマだけではない。
散歩のついでに立ち寄った図書館には恋愛小説も豊富に揃っており、手ごろな文庫を借りてきていた。
こういった類の本に詳しいわけではないので、端からごっそり取って来ただけだが。
様々な話を読ませ、自分で考えるようにすれば、感受性が生まれるかもしれないと期待していた。

アキヒロがリビングに入ると、ノルは視線を移す。
「お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
プログラムが反応しているだけとはいえ、帰宅時に声をかける様子を見るとやはり人間味を感じる。
ちょうど動画が終わったところなのか、画面にはスタッフロールが流れていた。
それが終わるのを待ち、パソコンを消す。

「今度は、映像じゃなくて文字だ。たぶん、読んだことはないと思う」
ノルは本を受け取ると、表紙をじっと凝視した。
学者の論文のような表紙ではなく、イラストも描かれているのが珍しいのだろう。

「夕食まで読んでおけ。ただし、疑問点があっても質問はせずに、自分で想像してみるんだ」
「はい」
それだけ答えて、ノルは本を開いた。
こうしてキャラクターの心情を学び続ければ、感情を知り、自我が芽生える切っ掛けになるかもしれない。
果たしてどんな成果が出るのか、アキヒロは楽しみにしていた。




―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
まだ序盤なのでスキンシップはありませんが、次から本格的?になります。
相手が一人だけなので、いかがわしくなるまでさほど時間はかからないかもしれません。