心の空白期間3
ノルは、とても早いペースで映画や小説を学習していた。
いくら本を借りてきても一晩しないうちに読み、映画も倍速で見ている。
声をかけない限り休まないが、疲労している様子はなかった。
そろそろ、学習の成果を見る頃だろうと、アキヒロはこんな指示をした。
「ノル、何かしたいことがあったら言ってみろ」
今までは指示をするだけだったが、ここで初めてノルの意思を確かめる。
最初にどんなことを言い出すだろうかと、アキヒロは期待した。
「手を繋ぎたいです」
「・・・手?」
「はい、手を繋ぎたいです」
聞き返しても、同じことしか告げられない。
心情を理解させるために、恋愛ものばかりを学ばせたせいだろうか。
けれど、特にありませんという返事がないよりはよかった。
「わかった、好きにしろ」
「はい」
許可を出すと、ノルはすぐにアキヒロと手を繋いだ。
自分より大きな掌に、右手が包まれる。
血が通っているのかと疑うときもあったが、ほんのりと温かかった。
そうして、沈黙が流れる。
本当に手を繋ぐだけでいいのか、ノルはそれ以上行動しなかった。
黙っていると、掌の体温を鮮明に感じてどこか落ち着かなくなる。
「・・・トイレに行ってくる」
「はい」
そう言って歩き出すと、ノルは手を離さずついていった。
扉の前で、アキヒロはぴたりと立ち止まる。
「ついてこないでくれ」
「はい」
一言言うと、ノルはすんなりと手を離した。
アキヒロはトイレに入り、扉を閉める。
しばらくして再び扉を開いたところに、ノルが仁王立ちをしていた。
アキヒロを確認すると再び手を取り、また身動きをしなくなった。
どうしたらいいものか、アキヒロは頭を悩ませる。
自分自身、研究ばかりで異性と付き合う暇などなかったので、扱いがわからない。
「・・・他に、したいことはないか」
「外へ出たいです」
「そ、外か・・・」
おそらく、最初に見たドラマで、女子二人が手を繋いで歩いていたことを真似たいのだろう。
家の中だけならまだしも、外は近所の目があるのでよろしくない。
それでも、折角芽生えた自主性を潰したくはなかった。
「人気のない道はわかるか」
「はい」
「なら、その道を通ること。外出は20分だけ許可する」
「ありがとうございます」
許可がとれたとわかると、ノルはやっと動き、玄関口へ向かう。
そして、アキヒロと手を繋いだまま外へ出た。
ノルと横に並んで、アキヒロは少し引っ張られつつ裏道を歩く。
いつ目撃されるかと気が気ではなかったが、幸いにも道には全く人気がなかった。
成人男性二人が真顔で手を繋いで歩くなんて、何かの罰ゲームに近い。
外出の時間は短く設定したつもりだったが、やたらと長く感じて仕方がなかった。
お互い無言のまま、ひたすら道を歩き、途中で来た道を戻る。
ずっと繋いでいると気恥ずかしくなり、無言のままでは辛い。
「何か、聞きたいことはあるか?」
あと半分の時間を耐えきれなくなり、アキヒロは問いを投げ掛けずにいられなくなった。
「アキヒロさんは何が好きですか」
「漠然としているな。食べ物か?動物か?」
「両方です」
示した選択肢以外の返答があり、成長しているのだと実感する。
「好きな食べ物はフレンチトーストで、好きな動物はネズミだ」
「なぜですか」
まさか理由まで聞いてくるとは思わず、アキヒロは目を丸くする。
「フレンチトーストは炭水化物も糖分も取れて、味もいいから好きなんだ。
ネズミは、実験でラットを扱っているうちに好きになった。たまに、辛くなるけどな」
愛着を持っても、ラットは実験に使われてしまう。
たまには残酷なこともされ、無残な姿を目の当たりにしたこともある。
だから、あまり愛でないようにしているのだけれど、小さな瞳に見詰められるとたまらなくなることがあった。
「わかりました。では、好きな番組は何ですか」
「番組か・・・結構、ほのぼのとしたホームドラマが好きだな。何も考えずに見られて楽だ」
難しい研究の反動だと思うが、それは、もしかしたら自分の憧れかもしれなかった。
誰かと共に暮らし、生活するなんて考えられなかったけれど。
心のどこかで、そんなことを望んでいるのかもしれない。
それから、「わかりました」という返事と共にまた質問が繰り返される。
相変わらず喜怒哀楽は見られなかったが、だいぶ人らしい会話ができていてアキヒロは満足していた。
会話があったからか、帰りはあっという間に家に着く。
この調子なら、応答と質問以外の話ができるのも時間の問題だろう。
家に着いても手は繋がれたままで、洗う時だけ離し。
まだ質問は続き、とにかく好きなものを聞かれていた。
本、映画、季節、天気など、好きな理由も添えて答え、疲れてきたので次を最後にさせようとしていた。
「アキヒロさんはどんな人が好きですか」
「静かで、自分の考えを押し付けずに、気持ちを共有できる人が良い。騒がしいのは嫌いなんだ」
「それは僕ですか」
驚くべき反応があり、アキヒロは言葉を止める。
「・・・違う。お前は確かに静かで意見を押しつけないけど、共感性がないだろう」
「そうですか」
否定されても、ノルはいたって平然としていた。
度肝を抜かれたが、答え方の応用を自分で編み出したのは成長の証だ。
けれど、一人の相手に興味を持ちすぎるのは好ましくない。
一か月後、ノルがどうなるのか知らされていないし、愛着を持ちすぎるとお互い辛くなるだろう。
「質問はここで打ち切りだ。研究所へ行ってくるから、家で読書でもしているように」
「はい」
もっと、他の物にも興味を示させなければならない。
そこで、アキヒロはとある物を取りに研究所へ向かった。
研究所の帰りに、アキヒロはペットショップへも寄って必要なものを経費で購入する。
家へ帰ると、ノルは本を読み終えてしまったのか、ただ静止していた。
「ノル、いい物を持ってきたぞ」
帰宅に反応し、ノルは傍へ歩み寄る。
アキヒロは炬燵の上にハムスター用のケージを置き、その中へ小さな動物を入れた。
「研究所からラットを貰って来たんだ。世話の仕方は、ネットで調べること」
「はい」
そう言うと、ノルはノートパソコンを近くに持ってきて起動した。
その間に、アキヒロは水や餌を用意する。
専用の水入れを設置すると、ラットは背伸びをして水を飲み始めた。
二本足で立っている様子が何とも愛らしくて、じっと見入ってしまう。
たまらずケージから取り出し、掌の上に餌と一緒に乗せた。
ラットが小さな種を齧ると、細い髭が指に当たってくすぐったい。
ゆっくりと背中を撫でると、毛並みがさらさらとしていて心地よかった。
「ノル、掌を上にして、両手を出してみろ」
ノルが検索を中断して両手を出すと、アキヒロはそこへラットと餌を乗せた。
広い掌の上に移されてラットは辺りを見回したが、すぐにまた種を齧り始めた。
「何か思うことはあるか」
ノルはここでも無表情のまま、じっとラットを見詰めている。
「かわいらしいです」
「そうか、それはよかった」
今の感想はノルの意思ではなく、世間一般的なことを踏まえた上での言葉かもしない。
それでも、可愛らしいという感想を共有できたことが嬉しかった。
ノルの掌の上に乗せたまま、餌を食べ終わったラットの背を撫でる。
耳の裏を掻いてやると、気持ちがいいのか指に擦り寄って来た。
こうして甘えられると、思わず頬が緩み、視線が優しくなる。
そうしてラットに夢中になっているアキヒロを、ノルはじっと見ていた。
「そうだ、名前を付けてやらないとな。何にしようか・・・」
「かわいらしいです」
「いや、それは固有名詞じゃないだろう」
「アキヒロさんもかわいらしいです」
突拍子もない発言に、ラットを撫でる手が止まった。
今のは、世間一般的な感想としてはとても相応しくない。
どこに、二十歳を超えた男性を可愛いと形容する相手がいようか。
童顔なのでからかわれることはあったが、真面目に言われるとどう答えていいかわからなくなった。
「な、名前・・・背中が丸いから、マルにしよう」
「マル、ですね」
思わず無視してしまったが、ノルはさして気にしていないようだった。
どこかで、美的感覚が狂ってしまったのだろうか。
それとも、ノルに自我の片鱗が生じてきたということなのか。
喜ばしいことなのだけれど、今日の報告書は苦戦しそうだった。
「マルを傷つけないように。それと、部屋の外に出さないようにすること」
「わかりました」
ノルはマルをケージに戻すと、飼い方の検索を再開した。
動物と接することで慈しみを覚えてくれればいいと、そんな思いで研究所から譲り受けたのだが。
これから先、ノルがどんなことを言い出すのかと、楽しみでもありつつ不安でもあった。
―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
少しアプローチをしたノル、ここから段階を踏んでいちゃつかせていきます。