心の空白期間5


重たい体を起こし、アキヒロは普段より1時間遅く起床する。
昨日、久々に羽目を外したのがいけなかったのだろうか、疲労感が抜けていなかった。
着替えて顔を洗うと、リビングから何やら甘い香りが漂ってくる。
もしやと思い部屋へ行くと、ノルが台所で料理をしていた。

「ノル、おはよう」
「おはようございます」
ノルは一瞬だけ視線を移して挨拶し、俯きがちになる。
何を作っているのかと台所を覗くと、香りがさらに強くなった。
フライパンには卵液がひかれていて、その上に分厚いトーストが2枚乗っている。


「フレンチトーストを作っているのか」
「はい、フレンチトーストを作っています」
まさか、ここまで自主性が育っているとは思わず朝から驚かされた。
昨日の猫喫茶は何らかの形で良い刺激になったのか、日々の成長ぶりが見て取れる。
いつの間にか、アキヒロはノルの精神面が育つのを楽しむようになっていた。

「朝食は任せてもいいか?」
「はい。椅子に座って、待っていて下さい」
以前に自分が言っていた台詞をまねされたことがおかしくて、アキヒロはかすかに微笑む。
お言葉に甘えて炬燵に移動し、ノートパソコンを開いた。
研究所からのメールが来ている通知があり、嫌々ながらも開く。
それは、とんでもない連絡だった。

自主性が伸びてきていることは喜ばしく、お褒めの言葉はあったけれど。
最後に、今日はノルに対してとある指示をしろという一文がある。
それを見た瞬間硬直してしまったが、研究所からの命令ならば従わなければならない。
アキヒロは料理を続けているノルをちらと見た後、気付かれないように溜息をついた。




ほどなくして、炬燵の上に料理が並ぶ。
甘い香りのするフレンチトースト、数種類の野菜を使った瑞々しいサラダ、温かそうなコーンスープと見栄えがいい。
「フレンチトーストが好きだって、覚えていたのか」
「はい。アキヒロさんはフレンチトーストが好きです」
こうして好物を用意してくれたと思うと、胸の中が温かくなる。
今まで独り身だったので、尚更ありがたみを感じていた。

「ありがとう、いただくよ」
「いただきます」
早速、アキヒロは好物に手を付ける。
厚切りのトーストを噛むと、甘い卵液が染み出して味わいが広がった。
その食べ物のことしか考えられなくなり、久々に舌鼓を打つ。
甘さも食感も自分好みで、どこかのホテルの食事と見紛うほどだった。

「うん、美味いな」
「ありがとうございます、嬉しいです」
喜びの感情があるのかと、アキヒロはノルをまじまじと見る。
けれど、表情はいたって平静としたままで、先の言葉は空っぽのもののように思えた。
フレンチトースト以外にも、コーンスープは濃厚で、サラダもドレッシングがまろやかで食べやすい。
どれも味は申し分なかったが、最後に、トーストを食べ切ろうとしたところでふと手が止まった。

まだ満腹ではないのに、胃がもう入れなくていいと主張している気がする。
久々に格段に美味しい物を食べて、消化能力が異常をきたしているのだろうか。
それでも折角作ってくれたのだから残しては悪いと、口に運ぶ。
何とか完食したが、胃が重たくなった気がした。


「ごちそうさま。洗い物くらいはするよ」
食器を重ね、流し場へ運ぼうとする。
そのとき、急に立ち上がったせいか、少し足元がふらついた。
食器を落とさないように踏ん張り、何とか洗い場へ持って行く。
やはり食べすぎたのか、それとも研究所からの命令があるからか、起床時のように体が重たかった。

皿洗いを進めるが、どうにも動きが鈍くなる。
二人分なのでそれほど枚数は多くなかったけれど、いつもより時間がかかっていた。
洗い終わったところで疲労感を覚え、炬燵にもぐりたくなる。
振り返ると、いつの間にか目の前にノルがいて思わず後ずさった。

「ど、どうした」
問いかけてもノルは答えずに、アキヒロの額に掌を当てた。
「体温37.4度、微熱があります」
「そんなことがわかるのか」
熱よりも、ノルが温度を的確に言えることに注目していた。


ノルが掌を退けるとアキヒロは体温計を取ってきて、炬燵に入って測ってみる。
アラームが鳴った後に表示を見ると、37.4と示されていた。
「今すぐ治療しなければいけません」
血が出た時と、同じことを言われる。
これはもともと言いつけられていることで、心配しているからではない。
そう思うと、どこか物悲しくなる。

「別にいい。そんな微熱で休んでいたら他の研究員に笑われる」
「今すぐ治療しなければいけません」
拒否したはずなのに、同じ音量で、同じことを機械的に告げられる。
研究員が体調を崩したら、断固として治療するように言われているのだろう。

「・・・わかった。部屋に戻る」
そう言うと、ノルはアキヒロににじり寄り、すぐ傍まで近付く。
そして、腕をアキヒロの背に回し、足の下にくぐらせ、さっと抱き上げた。

「お、おい」
突然のことに、アキヒロは焦りを覚える。
何とも恥ずかしい光景だったけれど、ここでじたばたしてもまた抱えられるだけだ。
アキヒロはそのまま、大人しく部屋へ運ばれていった。



朝から敷きっぱなしの布団の上に下ろされ、毛布を掛けられる。
アキヒロが寝転がったのを確認すると、ノルはすぐに部屋を出た。
こんな様子では、研究所から指示されたことはできそうにない。
けれど、報告書は充実させなければならないので、成り行きに任せてみることにした。

やがて、ノルが水の入ったコップと薬を持って帰って来る。
アキヒロが体を起こすと、すぐに背を支えるよう手を添えた。
「一回三錠です」
アキヒロは水と薬を受け取り、丸い錠剤を三粒飲む。
コップの中が空になると、ノルはゆっくりと体を横たえ、また出て行く。
次は、氷枕とハンドタオルを持って帰って来た。


アキヒロが頭を上げると、手早く枕を交換する。
ひんやりとした氷枕が心地よく、微熱とはいえ熱があることには変わりないのだと自覚した。
続いて、額に冷たいタオルが乗せられる。
前からも後ろからも冷やされ、アキヒロは軽く息をつく。
看病が終わった後、ノルは正座をしてその場に留まっていた。

「・・・ここにいなくてもいいんだぞ」
「いえ、まだ完治していません」
どうやら、治るまで目を離さないよう言われているらしい。
元々、研究員は研究に没頭するあまり無理をしがちなので、監視の役割もあるのだろう。
ノルは、より上の立場の相手に言いつけられていることを優先するようになっているはずなので。
今は自分が何を言っても無駄だろうと、アキヒロはそれ以上何も言わなかった。



暫く寝ていると、見下げられている視線もあまり気にならなくなってくる。
けれど、いつも研究三昧の日々だったからか、退屈で仕方がなかった。
「ノル、ノートパソコンを持ってきてくれないか」
そう言うと、ノルは額のタオルを退かし、掌を当てた。

「体温37.3度。まだ完治していません」
即答で断られ、アキヒロは早々に諦めた。
この調子では、報告書も書けないかもしれない。
それはそれで気が楽だったが、やはり何もしないでいるのは落ち着かなかった。

「お前は何か、したいと思っていることはないのか。じっとしていると暇だろう」
「したいことはあります。ですが、アキヒロさんの体調が万全でなければできません」
アキヒロは、その言葉の内容を、詳しく聞くのが怖かった。
外へ出て一緒に運動でもしたいのか、また猫喫茶に行きたいのか。
その可能性は大いにあるが、それ以外の内容もありえる。
ましてや、抱きしめたいなどと言われた時のことを思い出すと、ますます聞きにくかった。


「そういえば、お前にあまり質問したことがなかったな。暇だから、話に付き合ってくれ」
「はい。アキヒロさんの問いになら、何でも答えます」
返事の後に好意的な言葉が続けられ、少し嬉しくなる。
ノルの自意識を確かめる良い機会だと、アキヒロは問いを考えた。

「じゃあ、好きな食べ物は何だ」
「アキヒロさんの作る食べ物です」
漠然とした答えに、質問が悪かったかとアキヒロは口をつぐむ。

「質問を変える。好きな動物は何だ」
「マルです。アキヒロさんが貰ってきてくれました」
この答え方だと、マルが猫でも犬でも同じように言っただろうと予測がつく。
どうやら、ノルの価値観はかなり偏ってしまっているようだ。
これでは、全てを相手の価値観に合わせているだけで、自分の意思があるとは言えない。
今はまだ無理なのかと、アキヒロは質問を打ち切った。




それからは、会話を止めて報告書の謝罪文を考えることに集中する。
もう今日の報告書を送らないつもりで、どうやってご機嫌を取ろうかと文面を考えていた。

「アキヒロさん、昼食はどうしますか」
「もうそんな時間か。でも、食欲がないからいい。。
お前は勝手に作って食べていていいぞ」
寝ているだけなので、まだ朝のフレンチトーストが消化しきれていない。
それに、無理して平らげたので胃がもたれていた。

「食欲がないのは、朝食のせいですか」
「ん・・・まあ、因果関係を考えればそうなるな」
何気なく答えると、ノルが沈黙した。

「・・・僕のせいですね」
「え?」
「僕があんな朝食を作ってしまったせいです、すみませんでした」
ノルが、土下座をするように深々と頭を下げる。

「い、いや、お前のせいじゃない。食事は美味しかったし、満足したから」
諭すように言うと、ノルはゆっくりと体を起こす。
そのとき、わずかに眉根が下がっているように見えて、アキヒロはノルを凝視する。
けれど、その表情は一瞬で平坦なものに戻ってしまい、変化があったと確信は持てなかった。

「そうだ、タオルを濡らしてきてくれないか。もうぬるくなっているんだ」
「わかりました」
ノルがタオルを取り、部屋を出て行く。
以前、体調を崩したときは、一人でひたすら治るのを待っていたけれど。
誰かがこうして世話をしてくれるのは、とてもありがたかった。


ノルはすぐに戻ってきて、タオルをアキヒロの額に乗せる。
そのとき、手はすぐに退けられず、頬に掌が添えられた。
熱を測るにしては妙な場所に触れられ、不思議そうにノルを見上げる。

「・・・ノル、どうした?」
「アキヒロさんに、触りたいんです」
直球で言われ、アキヒロは唾を飲んだ。
緊張感が生まれたが、そのまま頬がそっと撫でられると、自然と目が細まる。
まるで慈しまれているような気がして、アキヒロはノルのしたいようにさせていた。

その手はやがて、頬から首へと下りて来る。
首元を指先が撫でると、流石に肩が震えた。
「ノ、ノル・・・お前のしたいことは、今はできないんだろう」
「そうですね」
今気づいたかのように、ノルは手を離す。
触れている間もやはり無表情で、アキヒロはほっとする反面、残念に思うところもあった。

「一眠りするから、お前も楽な姿勢でいろ。ずっと正座をしていると血が止まる」
「はい、楽な姿勢になります」
そう言うと、ノルはアキヒロの布団の中へ入ろうと毛布をめくる。

「こ、ここで寝る、のか」
「楽な姿勢なので」
ノルは平然としたまま、アキヒロの隣に寝転がった。
確かに、仰向けになるのは最も楽な姿勢で、ここなら病人の変化にもすぐに察知することができる。
理にかなっていても、負に落ちない点はあった。


アキヒロは、ノルを意識しないよう天井の一点を見詰める。
それでも、さほど大きい布団の中では腕が触れ合ってしまい、どうしても相手の体温を感じてしまっていた。
「アキヒロさんを見ていてもいいですか」
ちら、と隣を見ると、淀みのない瞳が間近にあった。
慌てて視線を天井に戻し、動揺を隠す。

「・・・構わないけど、もう寝るから相手はできないぞ」
「はい、わかっています。それでもいいんです」
心行くまで、寝顔を見詰めていたい。
それは、まるで愛おしいものに向けられる言葉のように思えて、内心穏やかでなくなった。

あまり深く考えるのはよそうと、アキヒロは目を閉じる。
大の大人と肩を並べて眠ったことなんて、今の今まで一度もなかったけれど。
睡魔が強くなるのが幾分か早いような、そんな気がしていた。




―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
スキンシップモードに入っているので、もうここから触れ合わない回はありません。
それにしても、大人×大人って初めての組み合わせじゃないでしょうか・・・童顔ですけど。