心の空白期間6


ノルの看病の甲斐もあり、一日中休んだこともあり、アキヒロの風邪は一日で完治していた。
朝起きると、当たり前のようにノルが朝食を準備していて、朝の挨拶を交わす。
これが異性ならまるで新婚家庭だと、柄にもないことを想像していた。

いつものように炬燵でノートパソコンを開くと、早速メールの通知がある。
開いてみると、報告書が送られていなかったお叱りの内容がつらつらと書かれていた。
昨日の内に謝罪の文面は考えておいたので、高速で打ち込んでいく。
特に、ノルにノートパソコンを禁止されていた旨を強調しておいた。
やんわりと、元々そちらが病人に電光画面を見せないよう指示しておいたせいだと察させるようにする。

丁寧に、形だけの言葉を並べて送信すると、ものの5分もしないうちに返信があった。
何か非礼があったかと、すぐに開く。
けれど、そこには、基本的に主人の要望は聞くようにしてあるということと。
今日は、昨日行うよう通達した指示を出すことと念押ししてあった。

昨日、ノートパソコンを持って来なかったのはノル自身の意思だったのだろうか。
どこまでが自分の意思で、どこまでが指示なのか明確にはできないけれど。
労わるためにそうしてくれたのだと思うと、やはり胸が温かくなる。
そうして機嫌が良くなったはずみが、昨日言えなかった指示をするよう背を押してくれた。


「・・・なあ、ノル」
ノルが食事を運んできたところに、呼びかける。
「なんでしょうか」
ノルはアキヒロをじっと見詰め、言葉の続きを待つ。
正直、この続きを言った後、ノルが何をするのか少し怖い。
それでも興味は大いにあったし、今日も研究所の命令に従わなければ大目玉をくらう。
アキヒロは様々な要素に背を押され、告げていた。

「今日・・・今日一日は、お前の好きなことをしてもいい。いちいち許可を取る必要も・・・ない」
これは、ノルの自主性を最大限に活用できる指示だが、危険も伴うものだった。
いわば、犬の首輪を外して散歩に行くようなもので。
間違ったことをすれば止められるが、間に合わなければ過失になる。
自分に危険が及ぶ可能性もあるが、アキヒロはノルが悪くは育っていないことを信じていた。

「わかりました。僕の自由にしてもいいのですね」
「ああ、今日一日はな」
一日、ということを強調して繰り返す。
こうして、日付が変わるときまで、油断できない日が始まった。


それから、アキヒロはノルに一切の指示を出さず、ノートパソコンと向き合っていた。
特別な動きを見せたらすぐに書き込めるよう、メモ帳を開いて待機している。
信用しつつも心配しつつ、一挙一動に目を見張っていたが、ノルが行っていたことはただの家事だった。
洗い物をし、洗濯物を干し、掃除をし、食事を作り。
時間ができたら映画を見たり、読書を見たりして休憩する。
外へ行くこともなく室内で時間を過ごす様子は、まるで自分の日常を真似されているようだった。

家事をすることがなくなって時間が余り、アキヒロはワードの画面と向き合う。
日常の激務に慣れてしまったせいか、暇すぎるのは落ち着かない。
書きかけの論文を完成させる良い機会だと、数時間ほどキーボードを叩いていく。
昨日休みすぎた反動もあって、論文はハイペースで進んでいった。


「アキヒロさん」
集中しているときに話しかけられ、反応が遅れる。
少し間をあけてから横を向くと、すぐ傍にノルがいた。

「同じ姿勢を3時間もしています。休憩してください」
「ああ、もうそんなに時間が経っていたのか。そうだな、少し休む」
論文を保存し、ノートパソコンを閉じる。
伸びをすると、肩や首の骨がバキッと鳴った。
おなじみの肩凝りにも慣れたもので、痛いのが当たり前になっている。

「マッサージをしましょうか」
「できるのか?」
「はい、こちらに背を向けてください」
言われた通り、アキヒロはノルに背を向ける。
ノルは両肩を掴み、力を込めて揉み解した。
肩の筋肉は完全に凝り固まっていて、力を込めると軋む。

「痛くありませんか」
「大丈夫だ、丁度いい」
結構強い力に、肩が解される。
ただ単調に揉むだけでなく、腕や首の辺りも手が移動していく。
指先でツボをじっくりと押されると、だんだんと肩が温かくなっていった。
マッサージなんて受けたことはなかったが、中々に気持ちが良くてリラックスできる。
血行が良くなりじんわりと血が巡る感じがしたとき、手が離された。


「うつ伏せになってください」
「わかった」
座椅子を退かし、アキヒロは足だけ炬燵に入れたままうつ伏せになる。
ノルはその上にまたがり、腰を指先で押した。
肩と同じく凝り固まっており、だいぶ固い。
体重をかけつつ、ノルはツボをピンポイントで押していく。
そうされていると、痛いのが当たり前だった腰もだんだんと温まっていくのを感じていた。

「気持ち良いですか」
「ん・・・そうだな、良い感じだ」
まるで風呂に入っているように肩と腰がじんわりとし、瞼が重たくなってくる。
腰もだいぶ凝りが取れたところで、ノルが退いた。
もう終わったのかと、アキヒロは体を起こす。
短時間の間に、だいぶ肩も腰も楽になっている。
また論文に向き合えば元通りになってしまうが、一時の爽快感に浸っていた。

「アキヒロさん、失礼します」
「まだ何かあるのか?」
マッサージし終わっていない場所があるのか、ノルがアキヒロの足に腕をくぐらせる。
そして、軽く体を持ち上げ、自分の膝の上に乗せていて。
妙な態勢だと思ったときには、体が両腕に抱き留められていた。

「ノ、ノル」
明らかにマッサージとは違うことをされ、焦りが生じる。
体の側面が密着し、腰元の腕に身が引き寄せられ。
もう片方の手は頭に添えられ、髪がノルの頬に触れていた。


距離がなくなった状態で接していると、何も言えなくなってしまう。
男の腕の中に居て戸惑うなんて、おかしなことだけれど。
誰かに抱き留められたことなんて少年時代にしかなく、無理もないことだった。

じっとしていると、そっと頭が撫でられる。
子ども扱いのようなことをされて、良い気分になるはずはないのに。
そうされると、なぜかマッサージを受けているときのように瞼が重たくなっていった。

ふいに、頭を撫でる手が止まり、頬に添えられる。
上を向くよう促され、その通りにすると、目と鼻の先にノルの顔があった。
瞬間的に心音が強くなり、身を引こうとする。
けれど、体に腕が回されたままで、逃れることができない。


「目を開けたままの方がいいですか」
「な・・・何を、言っているんだ」
問わずとも、ノルが何をどうしたいのかわかっている。
けれど、真っ直ぐな目で見詰められると、逸らすことができなかった。

ノルはすぐにはアキヒロに近付かず、少し間を空ける。
まるで、ここから進めてもいいかと確認をしているように。
好きなことをしてもいいと言った以上、拒否することはできない。

アキヒロは報告書のことを思い、目を閉じる。
すると、ノルがお互いの距離をわずかに詰め、顔を寄せる。
唇にかすかに吐息がかかると、アキヒロは身を固くし、覚悟した。

触れる、と思った瞬間、洗面所からピーッという高い音が鳴り響いた。
驚いて目を見開くと、ノルは腕を解いた。
「洗濯が終わりました」
ノルはさっと立ち上がり、洗面所へ向かう。
アキヒロは唖然としていたが、溜息をついて脱力した。
報告書に書けなくなって残念だったのではなく、安堵感の方が大きい。
恋愛沙汰に疎いせいで、迫られると思考が停止してしまう。
まだ今日の時間が3分の1ほど残っていると思うと、この先が不安でならなかった。




そんな懸念に反して、それからは普段と変わらぬ時間が流れて行った。
論文を書いていたらコーヒーを淹れてくれたり、ゴミ出しをしてくれていたりと。
自由にさせておくと、気配りが身についているのだとよくわかる。
このまま、平穏な一日が過ぎてほしいと祈ったけれど、最後の最後でそれは崩された。

早く明日になればいいと、アキヒロはいつもより早く寝る準備をする。
流石に、眠っているところを無理やり起こしはしないだろう。
「アキヒロさん」
布団を敷いている最中に部屋の扉が開かれ、ぎくりとする。
最初の言いつけを守っているのか、入ってこようとはしなかった。

「どうした、もう眠るところなんだけど、何か用事か」
内心穏やかではないが、必死に冷静さを保ち、変わらぬ口調で問いかける。
「はい。部屋に入ってもいいですか」
「・・・いいぞ」
許可を受けると、ノルが部屋に入りアキヒロに近付く。

「座ってください」
アキヒロが言われた通りにすると、ノルも布団の上に座って目線を合わせる。
そして、昼間のようにアキヒロの頬へ掌を添えた。

「これは、夜にすることだと学びました」
アキヒロの脳裏に、今までに見せた映画の場面が浮かぶ。
そういう行為がしたいのかと、これで確定したようなものだった。
ノルは、また確認するように間を空けた後、アキヒロに顔を近づけていく。
もう、行為を止めるものはない。
アキヒロがたまらず目を閉じると、口元に感じた吐息が重ねられた。

「っ・・・」
柔らかな感触に、息を飲む。
無理やり押し付けられるのではない、軽い触れ合い。
それでも、唇を意識してしまうと気が落ち着かなくなる。
ノルはものの数秒で離れたが、まだ足りないと求めるようにすぐ重ねられた。

「っ、ん・・・」
今度は、わずかに強く重ねられる。
より鮮明に柔い物を感じてしまうと、自然と頬に熱が上るのを自覚した。
恋愛感情を、抱かれているのだろうか。
もう、動物を愛でるような、そんな感情だけでは説明できない。
けれど、それは親密に接していた相手が一人しかいなかったからで。
もし他の研究員が選ばれていても、同じようになっていたのではないかと思う。
そう考えると、胸中がもやつくようだった。


やや長い口付けが終わり、お互いに息をつく。
まだ目を閉じたままでいると、ふいに唇を湿ったものがなぞった。
独特な感触に、思わず肩が跳ねる。

「アキヒロさん、口を開けてください」
数多の恋愛小説や映画を見たノルが、これだけで終わるはずはなかった。
黙ったままでいると、舌先が唇の隙間を開けようと触れる。
アキヒロは身震いしたが、おずおずと口を開いた。

湿った感触が、口内に入り込む。
それは深いところまで進み、同じものを触れ合わせた。
「は・・・っ」
舌に触られるなんて今までにないことで、意識せずとも吐息が漏れてしまう。
少しでも動かされると、頬だけでなくその吐息も熱を帯びていき。
最初はゆっくりとしていたけれど、徐々に動きが激しくなってくる。
交わった液を飲み込む余裕はなくて、零れたものが口端から伝っていった。

「う、ん・・・っ、は・・・」
液を拭う暇もなく、舌が絡まり続ける。
頬の熱が脳にも進行してゆき、報告書のことや研究のことなど考えられない。
まるで、余計なことに気をやるよりも、今感じているものに集中していたいと主張しているようで。
抵抗することもなく、ノルの思うがままにさせていた。


やっと解放されると、その間に液の糸が伝う。
緊張のあまり生唾を飲み込むと、ノルのものも喉元を通り過ぎてゆき。
はっと気づいたときには、強い羞恥心が湧き上がってきていた。

「この行為は、気持ち良いことだと学びました。
だから、アキヒロさんにまた気持ち良くなってもらいたいです」
もしかしたら、この先のことをノルはマッサージの延長線上だと認識しているのだろうか。
それなら、あまり意識することもないのかもしれないが。
マッサージだとしたら、相手に安らいでほしいという思いがあるだけに、確実に最後までされてしまう。
そうこうして考えている間に、上半身の寝具がめくられていた。
体が強張り、危機感を覚える。

感じる個所を分かっているのか、ノルは身を下ろす。
そして、胸部へ唇を寄せ、中央にある突起へ舌先を触れさせた。
「あ、ぅ・・・」
喉の奥から裏返った声が出てしまい、アキヒロはとっさに口をつぐむ。
ほんのわずかに触れられただけなのに、先よりも強い感覚が体に走った。
ノルが片手を伸ばし、指の腹でもう片方の起伏を撫でる。
同時に、舌で触れる面積をじわじわと広くし、やんわりと弄った。

「ん、ん・・・っ、ぅぅ・・・っ」
アキヒロは唇を噛み、衝動を抑え込むよう足をよじる。
湿った舌と細い指に愛撫されると、本能のままに反応してしまう。
その一方で、理性は怖じていた。
やがて、お互いに欲求が抑えきれなくなり、最後まで行為に及んでしまうのだろう。
人体の構造を把握しているだけに、この先のことに予測がついてしまい。
それを想像すると、とても不可能なことに思えて怖かった。


ノルが舌を這わせてゆくと、アキヒロの体が震える。
それは、悦楽ゆえのものではなく、ただの怯えだった。
「や・・・い、嫌だ・・・やめて、くれ、やめ・・・」
自分の中で感情の整理がつかなくて、わけがわからなくなって、たまらず訴えていた。
悦に比例して、恐怖心も大きくなる。
必死に呼びかけると、ノルは胸部から身を離して顔を覗き込んだ。

「アキヒロさん、辛いですか」
一時の間目を伏せ、アキヒロは小さく頷く。
情けなさを感じても、どうしようもなかった。

「アキヒロさんが辛いと、僕も辛いです。アキヒロさん、すみませんでした」
ノルはさっと上から退き、何事もなかったかのように部屋を出て行く。
行為を途中で止められて、未練も何もないのだろうか。
やはり、ノルに甘い感情など生まれていない。
そう思うと、また、胸が軋んでいた。




―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
いかがわしくなりかけたシーン、発禁にすると早すぎる気がしたので。
でも、後々自重しないことにはなります←