心の空白期間7


今朝、アキヒロは目が覚めてもなかなか体を起こせなかった。
体調が悪いわけではなく、ノルと接することにわずかな躊躇いが生じている。
昨日、拒まれたことで傷ついてはいないだろうか。
そして、また迫られはしないだろうかと心配していた。

布団の中でもたもたとしていると、ふいに水道の音が聞こえてきた。
台所からではなく、洗面所から聞こえてくる。
音が止むまで待とうと思ったが、どうせ顔を合わせるのだから意味もない。
動揺せず、いつものように挨拶を交わし、さっさと顔を洗おうとアキヒロは部屋を出た。


洗面所へ行くと、ノルが洗面台で何かを洗っていた。
一呼吸おいてから、声をかける。
「ノル、おはよう。何をしているんだ」
ノルは水道を止め、アキヒロの方へ視線を向ける。

「おはようございます。今、洗いものをしていました」
「洗濯機に入れ忘れたのか?」
不思議に思い洗面台を見ると、ノルの手には下着が握られていた。

「いいえ。朝起きたら汚れていました」
「汚れていたって、寝てただけなのに何で・・・」
そこで、はっとして言葉を止める。
原因が思い当ったときには、ノルが説明を始めていた。


「昨日、アキヒロさんの夢を見ました。そのとき、僕は昨日中断された行為を進めていました。
時間になって目が覚めたら、汚れていました」
はっきりと告げられずとも、この汚れが何なのか判明してしまった。
生理現象なのだから仕方がない、仕方がないのだけれど。
原因が自分なのだと思うと、もうその下着を直視できなかった。

ノルが水道を止め、両手で思い切り絞る。
「外に干してきてもいいですか」
「あ、ああ」
アキヒロは許可だけをして、ノルが出て行くところを見送る。
その後、すぐに冷たい水で顔を洗った。



リビングへ移動すると、扉の目の前にノルが待ち構えていたように立っていた。
ぎょっとして、思わず一歩退く。
「アキヒロさん、朝食を作ってもいいですか」
「あ、ああ、家事は自由にしてもいい。むしろ、してくれた方が助かる」
「わかりました」
好きなことをしてもいいという指示は、昨日で終わった。
それを忠実に守っていて、ほとほと感心する。
許可を出さない限り、勝手な行動をすることはない。
改めて実感すると、不安感は消えていた。

ノルが朝食を作っている間、アキヒロはいつものようにノートパソコンを開く。
先日、寝る前に何とか送ったメールは、とても恥ずかしい内容だった。
いくら大それたことをされても、仕事の一環なのだから報告しないわけにはいかず。
ノルに言い寄られ、求められたことも全て送っていた。

メールボックスを開くと、嫌でも研究所からのメールが目に入る。
どんなことが書かれているだろうかと、こわごわ本文を開く。
けれど、その内容は誹謗中傷などではなく、ノルに愛情が芽生えかけていることへの賛辞だった。
もしや、最初からこうして体を張らせる気だったのだろうかと訝しむ。
何にせよ、行き過ぎた関係を注意されずにほっとした。


「僕のことについて書かれているのですか」
朝食を運んできたノルが、珍しく興味を持って問いかける。
「まあ、研究所からのメールだからな」
あまり詳しい内容を見られたくなくて、ノートパソコンを閉じる。
今日の朝食は、スクランブルエッグに生野菜の付け合わせ、こんがりと焼いたトースト、ブラックコーヒーだった。
トーストとコーヒーの香りがかぐわしく、何やら優雅な雰囲気がある。

「アキヒロさん、僕は研究所に戻る前に行きたい所があります」
「そうなのか。別に構わないぞ、どうせ経費で落ちる」
「ありがとうございます。大きな浴槽がある所に泊まりたいです」
奇妙な要望に、アキヒロは疑問を覚える。

「大きな浴槽って、大衆浴場じゃ駄目なのか?」
「はい、個室がいいです」
そのとき、ノルは二人で一緒に入浴したいと、暗に言っているように聞こえた。
そんなものは、考えすぎなのかもしれないけれど。
昨日のことがあるので、気にせずにはいられなかった。


「・・・わかった。食後に旅館を探してみる」
「ありがとうございます」
その後、食事を終えた後アキヒロはノートパソコンを立ち上げた。
ネットに接続し、宿を探せる検索サイトを開く。
とりあえず個室の風呂がついていて、同僚に見られないようやや遠くの宿を探す。
さほど細かい検索条件でもないので多くのプランが出てきて、その中で一番上にあったものを選んだ。

宿の最寄駅はここから電車で一時間ほどで、そこからバスが出ているらしく。
サイトを見ると、雰囲気も悪くなく、ひっそりとしたところなので落ちつけそうだった。
やや料金が高かったが、どうせ研究費になるのだから気にすることもない。


「ノル、午後からでも泊まれるみたいだけど、すぐに行きたいか?」
「はい。少しでも早く行きたいです」
時間がないことを、ノルも察している。
実験に残された日数は、もう半分を切っていた。
アキヒロが旅館にメールを送ると、ほどなくして返信があった。

「今日は17時からならチェックインできるらしい。荷物を用意しておこう」
「はい、嬉しいです」
無表情でも、嬉しいという単語を使ってくれるようになったことが喜ばしい。
旅館へ行って楽しい思いをすれば、表情筋も動いてくれるのではないかと期待した。




一泊だけなので持ち物は着替えくらいしかなく、すぐに詰め終わる。
そこへノートパソコンも入れると、ずしりと重たくなった。
長時間家を出るとあらばこれはどうしても手放せない、職業病のようなものだ。
一泊だけなので、マルには十分な水と餌を置いておけば大丈夫だろう。

「そろそろ行くか。少し遠いから、早めに出た方がいい」
「はい」
外へ出て、駅へ向かう。
二人はだいぶ高い切符を買い、ほとんど乗客がいない先頭車両へ乗った。
ノルが窓際へ座ると、アキヒロは反射的にノートパソコンを取り出す。
そして、電車が動き出すと同時に、論文の続きを書き始めた。


電車は遅延もなくスムーズに進み、聞きなれない駅のアナウンスが流れる。
少し肩が凝ってきたところで一息つくと、ノルの視線に気付いた。

「あ・・・すまん、退屈させたか」
「いいえ、肩が凝ったと思ったので。マッサージしましょうか」
「いや、温泉に入れば解れるだろう。お前は何も暇潰しを持って来なかったのか」
移動時間が長いことは伝えていたし、家に書籍がなかったわけでもない。
なのに、ノルが着替え以外のものを持ってきていないのは意外だった。

「暇ではありません。僕は、アキヒロさんと居ることが幸せですから」
素直な物言いをされると、アキヒロはとたんに言葉に詰まる。
お世辞ならば、笑って聞き流せるものだけれど。
ノルの真っ直ぐな瞳は、嘘偽りを含んでいるようには見えなくて、それ故に戸惑った。

「アキヒロさんは、どう思っていますか」
珍しく質問が返ってきて、虚を突かれる。
「・・・お前は静かだし、自分のペースを押し付けないし、一緒に居ると、楽だ」
「ありがとうございます」
その答えに満足したのか、もう質問は飛んでこない。
そのとき、アキヒロは自分の答えに納得していなかった。
単純な言葉では表しきれない、他に思うことはある。
けれど、どう表現していいのか微妙なところで、言葉が発されなかった。




電車を降りた後は、ちょうど来たバスに乗り換える。
そこからはさほど時間もかからず、予約した旅館に着いた。
街中から外れ、周りは竹林に囲まれていてとても静かだ。

中へ入るとすぐに仲居が出迎え、部屋に通される。
内装は和室で、爽やかない草の匂いが鼻を通り抜けた。
夕食は6時ごろ部屋に運ばれると説明を受けた後、ノルと二人だけになった。
アキヒロはとりあえず荷物を置き、座布団に座る。
早速ノートパソコンを取り出して開こうとしたが、ふいにノルの手が上から重ねられた。

「旅行先では、休暇を楽しむものです」
開きかけていた画面が閉じられ、アキヒロはふっと笑う。
「そうだな、こんなところで論文を書くのは野暮だな」
ノルは、一般的なことを言っただけなのだけれど。
仕事漬けの自分のことを気遣ってくれている気がして、無意識の内に頬が緩んだ。

「家はフローリングとカーペットだけだから、畳は新鮮だな」
アキヒロは座布団を退かし、その場に寝転がった。
雰囲気が違うと、いかにも休暇に来たという感じになる。
この平穏の中に、電子機器は相応しくなかった。

「傍に行ってもいいですか」
「ああ、いいぞ」
ノルがアキヒロの隣に寝転がり、横顔を見詰める。
そして、目の前にある髪の毛にゆっくりと指をくぐらせた。
アキヒロはわずかに腕を動かしたが、猫の時と同じだろうと振り払うことはしない。
そのまま頭が撫でられ、たまに指が髪をすいていく。
なぜか、目を閉じると、眠ってしまいそうな心地良さに包まれた。


「・・・そうやって、撫でるのが好きなのか」
「はい。アキヒロさんが安らいでくれますから」
ちらとノルを見ると、いつもと同じ、綺麗な瞳が傍にある。
相変わらず、相手主体で動くのは変わりない。
それは是正しなければならないことだが、別にこのままでもいいかと、そんなことを考えてしまっていた。

とても、穏やかな時間が流れていく。
電子機器も書籍もないけれど、寝転がって、頭を撫でられている。
アキヒロはそんな状況に、幸福感を感じていた。

「失礼いたします」
突然、仲居の声がして、アキヒロはたまらず飛び起きる。
襖が開けられる前に、ノルの傍から離れていた。

「お夕食をお持ちしてもよろしいでしょうか」
「あ、はい、お願いします」
「かしこまりました。失礼いたします」
襖が閉められると、アキヒロは安堵の溜息をついた。




夕食は、やや料金が高いとあって豪華な和食だった。
魚料理がメインで、新鮮な刺身や寿司が並べられ、どれも絶品だ。
食事だけでなく、蜂蜜梅酒という珍しい酒もあり、食が進む。
普段、あまり飲酒はしないけれど、ほのかに甘い味にペースが早くなり。
ノルも飲むには飲んでいたが、いくらコップを空にしても顔色一つ変えていなかった。

「旅行先だと、絶品料理がさらに美味く感じるな」
「はい、美味しいです」
表情が平坦でも、箸が止まる様子がないので満足しているとわかる。

「でも、僕はアキヒロさんが作ってくれた料理が一番好きです」
「・・・そんな台詞、どんな小説で覚えたんだ?」
「引用ではありません。本心です」
言葉を返せなくて、アキヒロは箸を置く。
そして、コップに残っていた梅酒を一気に飲んだ。
とたんに酔いが回り、頬が染まる。

「ずっと・・・そうやって、お互いの料理を食べ続けていられたらいいんだけどな」
「はい。アキヒロさんと、一緒に居たいです」
アルコールの力がなければ、余計なことをうじうじと考えてしまって、きっと受け止めきれなかった。
ひたむきで純粋な、親愛の言葉を。


ほどなくして夕食も終わり、仲居が膳を下げに来る。
アキヒロは久々に酔いが回ってぼんやりとしていて、布団に倒れ込めば数秒で眠ってしまいそうだった。

「寝る前に、風呂に入って来る」
「はい。その間に、布団を敷いておきます」
「ああ、頼む」
折角ノルの要望で温泉付きを選んだのだから、入らなければ意味がない。
少しでも酔いを醒まそうと、冷たい水を一杯飲んでから浴室へ向かった。


温泉は、二人で入るには勿体ないほど広かった。
檜の浴槽に濁り湯と、家ではまず入れない組み合わせに目を見張る。
さっと体を流して湯に浸かると、じんわりとした心地よさに包まれた。
檜の香りも相まって、身体共にリラックスする。
いつも、入浴中は論文のことや仕事のことを考えているのだけれど。
今は、そんな無粋なことは思い出さないようにしていた。

そうしてのんびりとしていると、浴室の扉が開かれてノルが入って来る。
アキヒロは一瞬、体を強張らせたが黙って湯に浸かっていた。
湯浴みをする音がし、ノルが隣に浸かる。
ちらと目を向けると、痩せ形でもがっしりとしている肩幅が目に入った。

「・・・体を洗ってくる」
気まずいわけではないのだけれど、つい、浴槽から出てしまった。
洗い場にある椅子に腰かけ、ボディーソープを取る。
スポンジはないので、手で泡立てて洗うしかなさそうだ。


「アキヒロさん、体を洗わせてください」
「ん、いいぞ。洗い場は二つあるしな」
すんなりと許可すると、ノルがボディーソープを泡立てる。
その問いは、もう一つの洗い場を使うためだと思った。
けれど、どこか妙だと気付いたとき、ノルが背後に回り、肩に手が添えられていた。

「えっ・・・」
思っていたこととは違うことをされ、戸惑いを隠せない。
掌が肩から腕へと滑って行くと、動揺のあまり瞳孔が開いた。
これは体を洗っているだけで、他の意図は何もないはずだと自分に言い聞かせる。
指示をしていないのだから、決して、以前のような行為に及ぶことはないはずだ。
掌は流れるように動き、腕が終わると背中を擦る。
何度も往復されると、背筋に寒気にも似た感覚が走った。

「ノ、ノル・・・」
呼びかけても手は止まらず、腕が回されて前面にも触れられる。
指先が胸部をかすめると身が震えたが、すぐに通り過ぎていった。
そのまま腹部を撫で、掌はさらに下へ行こうとする。
危険を感じ、アキヒロはとっさにノルの腕を掴んで止めた。

「そこからは、自分で洗うから・・・」
「わかりました」
聞き分けが良くて、ほっとする。
隣に並んだノルを見ると、大それたことをしておきながら表情は変わらぬままだ。
自分はかなり戸惑っていたのに、やや癪に障る。
そこで、アキヒロは手早く体を洗った後、ノルの背後に回った。


「お前の体も洗ってやる」
ボディーソープのボトルを奪い取り、泡立てる。
少しくらい、表情に変化をつけさせてみたいと。
同じようにして肩に触れ、腕をなぞったが、ノルは微動だにしなかった。
ますます面白くなくなり、腕はそこそこに背中もさする。
そこで、脇腹を手がかすめたとき、ぴくりと肩が動いた。

「何だ、くすぐったいのか」
もう一度脇腹をさすると、また肩が動く。
全く抵抗しないので少し罪悪感があり、そこには触れず体の前面を洗った。
あまり執拗にはせず、簡単に肌を撫でる。
そして、掌は下腹部へと近づいて行った。

流石に途中で手を止めたが、ふと考え直す。
この下へ触れれば、ノルの表情を崩せるのではないだろうか。
手が下腹部に添えられていても、ノルは全く止める様子がない。


そのとき、飲酒していたせいでどうにかしていたのだと思う。
気付けば、腹部にあった手は徐々に下がってゆき、下肢の中心部に触れていた。
脇腹の時と同じようにわずかに肩が動くと、もっと反応するところが見たくなる。
手はノルのものを包み込み、ゆっくりと愛撫していた。

「・・・っ」
案外敏感なのか、静かなものがとたんに熱を帯びてくる。
ノルがだんだんと反応を示してきているのを実感すると、アキヒロは自重ができなくなった。
なだらかな動きを何度も続けていくと、背後からでもノルの息が早くなってきているのがわかる。
広い背中に頬を寄せると、その息遣いが感じられて、自分の気も落ち着かなくなりそうだった。

「・・・マッサージとは、違うだろ」
「・・・はい」
顔は見えないものの、その返答はどこか弱弱しい。
確実に、ノルは感じているものがある。
こんな、細くもしなやかでも何でもない男の手でも。

そう思ったとき、自分は何をするつもりなのかとはっと気付いた。
相手が逆らえないのを利用して、無理に事を進めようとしている。
表情を変化させるためとはいえ、合意もなしにするようなことではない。
アキヒロは愛撫を止め、ノルから離れてシャワーを取った。


「悪かったな、こんなことをして・・・後は、自分でするといい」
泡を洗い流そうと、お湯を出そうとする。
しかし、その前に、背後から抱きすくめられて身動きが取れなくなった。
素肌が密着し、平常より早い鼓動が伝わる。

「ど、どうし・・・」
尋ねようとしたとき、ノルの下腹部のものが、後ろに当たる。
興奮しきっているものを感じた瞬間、まるで同調するようにアキヒロのものも脈打っていた。
それだけで、ノルの言わんとしていることに察しが付く。

「お、男としたって、気持ち良くも何ともないんじゃないか・・・」
「僕は、アキヒロさんがいいです」
包み隠さない言葉に、アキヒロの心臓が鼓動を強くする。
ノルは夢の中で行為をし、そして反応していた。
そして、自分自身も、ノルと体を触れ合わせたとき、何も感じないわけではなかった。


「・・・それは、ただの欲求不満からか、それとも」
「本心です」
即答され、拒否する理由がなくなってしまう。
アキヒロは数秒ほど沈黙し、口を開いた。

「ノル、お前、酔っているんだな、そうだな」
「はい、血中アルコール度数が高い値にあります」
その答えを聞き、アキヒロはノルの手をやんわりと握る。
拒否していないと、そう示すように。

「・・・・・・これは全部、アルコールのせいだ。酔いの勢いですることだ。だから・・・・・・好きに、しろ」
そう言わなければ、自分の気持ちにおさまりがつかなくなりそうで。
全てを、久々の飲酒のせいにしてしまいたかった。

「わかりました。アキヒロさん、ありがとう、ございます」
ノルが、しっとりと濡れている髪の毛に顔を寄せる。
もはや、アキヒロ自身も抑えようがなかった。




―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
まいどおなじみの風呂ネタ、でも発展させたかったんで、つい。
じれったいところで止めていますが、そうなると1万文字超えかねないので一旦区切りました。
うーん、やっぱり大胆ないちゃつきシーンが入ると心理描写中心になって話が長くなる。