心の空白期間9


旅館に泊り、家に帰って来た後、アキヒロは頭を悩ませていた。
昨日はとても報告書を書く暇などなく、謝罪文と共に報告しなければならないのだが。
旅行に行ったことはともかく、夜の出来事のことを赤裸々につづる度量がなかった。

酔いの勢いとは言え、とうとうノルと一線を越えてしまった。
広い掌に頭を撫でられ、素肌を重ね合わせ、愛撫されたのは頭だけではなかった。
目を覚ました時もまだノルの腕に抱き留められていて、露骨に焦ったのを覚えている。
そうして焦ったのは、自分が昨夜のことを微塵も嫌だと思っておらず。
むしろ、完全に受け入れていたことを自覚したからに他ならなかった。
だからこそ、今、ノートパソコンの前で頭を抱えていた。


「アキヒロさん」
ノルが隣に座り、自然と腕を触れ合わせる。
アキヒロの肩がわずかに動いたが、動揺は表に出てこなかった。
「どうした、今は報告書を書いている途中なんだが」
そうは言っても、メールには宛先が記入されているだけで、本文は一文字も打たれていない。

「昨日のことで悩んでいるのですか」
「・・・まあな。正直、どう書いていいかわからないんだ」
結果的に感情を誘発させることができたとはいえ、実験体とここまで仲睦まじくなったと聞いたら、他の研究員に何を言われるだろうか。
欲求を抑えられなかった愚かな奴だと非難され、自分の居場所がなくなるのではないかと懸念していた。

そうして悩んだままでいると、研究所からメールが送られてきた。
痺れを切らしてお叱りの文章を送ってきたのだろうかと、嫌々ながら本文を開く。
けれど、そこには中間報告をしに来るようにとしか書かれていなかった。

「今日は、研究所へ行くのですね」
「そうだな、お前にどの程度変化が生じたか見たいんだろう。すぐに来いとのお達しだ」
アキヒロが腰を上げると、ノルも続く。
これで、嫌でもお互いの関係のことが知られてしまうと、アキヒロは観念していた。




アキヒロは、ノルと共に研究所を訪れる。
通用口からこっそりと入るように言われたのでその通りにすると、初老の研究員が待機していた。

「昨日は報告書の提出がなかったようだが」
対面するなりそう咎められ、アキヒロは息を飲む。
「申し訳ありません。昨日は、少し疲れていて・・・」
「多少の疲労で執務を怠るのは情けないことだ。ここでは、それが常識になっているだろう」

研究職とあらば、連日連夜、研究開発の毎日で疲労が溜まるのは当たり前で。
薬は豊富にあるので、今のところ鬱病や自殺者は出ていないが、時間の問題かもしれない。
膨大な知識を持った研究員が一人減るだけで、研究には大きな穴が開いてしまう。
そういった問題が出る前に対処する必要があると、前々から言われているが何も変わっていなかった。


「とにかく、今日は006Dの検査をさせてもらう。お前は別室で待機しているように」
「わかりました」
ノルのような返事をして、アキヒロはガラス張りの部屋に通される。
そこからは、実験室の様子が良く見えた。
「006D、来なさい」
呼ばれたが、ノルは遠くを見詰めたまま微動だにしない。

「ノル、どうした?」
「僕は006Dではありません」
その発言に、研究員は目を丸くした。
「わかった。ノル、来なさい」
「はい」
名前を呼ばれると、ノルは大人しく研究員に着いて行く。
部屋を出る前に、ちらとアキヒロを見た後、実験室へ移動した。


その後のテストでは、脳波や筋肉を調べ、物を見せたときの反応が見られた。
研究員がしきりに何かを話しかけていたが、別室には聞こえてこない。
最後まで表情を変えることがなかったノルを心配に思いつつ、アキヒロはじっと様子を見ていた。

数十分後、ノルと初老の研究員が部屋に戻って来る。
ノルは研究員から離れ、すぐにアキヒロの隣に並んだ。
「どう、だったのでしょうか。結果は・・・」
少しの間を空けた後、研究員は重々しく口を開いた。

「正直、驚いたというのが素直な感想だ。
質問に対して完全な自我を持って答えている上に、表情筋にも発達が見られる」
賛辞の言葉に、アキヒロはほっと胸を撫で下ろす。

「では、もう半月、実験を続けても・・・」
「いや、もういいだろう。昨夜の報告書の代わりに、006D・・・ノルから、全て聞かせてもらった」
アキヒロの顔から、さっと血の気が引いた。
やはり、行き過ぎた関係になるべきではなかったと後悔する。
実験が終わるということは、ノルと離れなければならなくなるということで。
それを思うと、胸がずきりと痛んだ。

「アキヒロさんを悲しませないでください」
表情に出てしまっていたのか、ノルが訴えかける。
今や、ノルは相手の様子を見て、こんな気遣いまでできるようになった。
確実に人間味が増した姿に、研究員は笑った。


「ノル、お前はアキヒロの為なら、辛い環境でも耐えられる自信はあるか」
「はい。アキヒロさんと一緒に居られるのなら」
話が見えなくて、アキヒロはノルと研究員を交互に見る。

「残業の連続で、徹夜も珍しくなく、休日出勤があったとしてもか」
「はい。アキヒロさんの負担を少しでも減らせるのなら」
研究所の現状を告げられ、とある予感が浮かぶ。
もしかしたら、この実験の目的は。


「わかった。アキヒロ、もう予測はついていると思うが、ノルは明日からこの研究所で働いてもらうことになる」
話の途中で感づいていたが、アキヒロは開いた口が塞がらなかった。
人並み以上に体力があり、疲れ知らずの実験体は、研究所の現状を変える為に作られたのだと。
まさか、そんなことに利用されるとは思わず、アキヒロは笑いそうになる。
けれど、笑い出す前に聞いておきたいことがあった。

「ノルを研究員にするということは・・・これからも、共に居られるのですか」
「まあ、お前と居るほうが安定するだろうからな、何かと教えてやるように。
今日はもう帰ってもよろしい」
初老の研究員が、部屋を出て行く。
そのとき、アキヒロは頬を緩ませずにはいられなかった。
1ヶ月が過ぎてもノルと暮らしていける上に、研究もできる。
口には出さないものの、内心では高揚していた。

「よかったな、ノル。これからも・・・」
言葉を言い終わらない内に、体に腕が回される。
気付いたときには身動きが取れなくなり、抱き留められていた。
「嬉しいです、アキヒロさん」
声に抑揚はなくとも、ノルが喜んでいるのだとわかる。
アキヒロは、共感するようにノルの肩に身を寄せていた。


「そうだ、言い忘れていたんだが」
「わあっ!」
初老の研究員が戻って来て、アキヒロは慌ててノルから離れる。
焦っている様子を見て、研究員はふっと笑った。

「帰る前に、研究所の中を見せておくように。あと、勤務は明後日からでいい」
「あ・・・ありがとう、ございます」
完全に気遣われ、アキヒロは赤面する。
研究所が出て行くと、ほっとしたように溜め息をいた。
確実に見られてしまったけれど、偏見を持たれなくて安堵した。

「・・・今から案内するけど、研究所内では、抱きつかないように」
「わかりました。アキヒロさんは照れ屋なのですね」
「あ、あんなとこ見られたら誰だって焦る。ほら、行くぞ」
返事の後に告げられた言葉に押されるように、アキヒロはいそいそと部屋を出る。
けれど、そんな言葉は、決して無駄なものではない。
必要最低限ではない反応は、人らしい感情が構築されてきている証拠だったから。




広い研究所は一回りするだけでも時間がかかったが、ノルは一度通った道は忘れなかった。
部屋の説明もすぐに覚え、本当に優秀だとつくづく思う。
ただ、優秀であるがゆえに、多すぎる仕事を任されるかもしれない。
だが、自分の目の黒い内はそんなことはさせないと、アキヒロは心に留めていた。

「説明はこんなところだ。そろそろ帰るか」
「はい、ありがとうございました」
案内も説明も終わり、二人は裏口へ向かう。

「ノル、ちょっと来なさい」
その前に初老の研究員に呼び止められ、ノルが歩み寄る。
何かを手渡されているようだったが、アキヒロからは見えなかった。
数分もしない内に、ノルが小瓶を持って戻ってくる。
中には、塗り薬のような乳白色の液体が入っていた。

「ノル、それは何だ?」
「弱い筋弛緩剤のようです」
濃度を誤ればえらいことになるが、この筋弛緩剤は肩凝り腰痛に悩まされる研究員には重宝されている。
乳白色のものを見るのは初めてだったけれど、肩凝りにいいのかとあまり詳しく聞かないでおく。
それよりも、早く家に帰ってノルとの余暇を過ごしていたかった。


家に着いた頃には、もう辺りが暗くなっていた。
ちょうど空腹感を覚えていたので、二人で夕食を作り、ゆっくりと一緒に食べる。
明日はともかく、明後日からはこんなに和やかな時間は中々過ごせなくなるだろう。
今日は、真正面から向き合うのではなく、お互い横に並んで食事を進めていた。
交わす言葉は少なくとも、近い距離に居るだけでもほんのりとした幸せを感じる。
食事を平らげ、後片付けが終わっても、二人はしばらく肩を並べて座っていた。
ノルとなら、楽しい話がなくとも、何時間でも過ごせそうだった。

「・・・アキヒロさん」
ふいに、ノルがアキヒロに身をすり寄せる。
「どうした?久々に研究所へ行って疲れたのか」
まるで大型犬が甘えてきているようで、ノルの肩を軽く叩く。
ノルはさらに身を寄せ、アキヒロの頬へ唇を寄せて軽く触れさせた。
柔らかな感触に、とくん、と心臓が鳴る。
その唇はだんだん正面へと近づいてゆき、口元へ辿り着く。


「ノ、ノル」
積極的に甘えを見せてきて、アキヒロはわずかに動揺する。
けれど、身を引こうとは思わなくて、そのまま唇を重ねていた。
自然と目が細まり、ノルを受け入れる。
柔いものが差し入れられたとき、アキヒロは静かに目を閉じていた。
余計なものは遮断し、ノルと触れ合っている感覚だけに集中するように。
アキヒロの口内で、お互いがゆっくりと絡まる。

「ふ・・・」
まるで、お互いの親愛を確かめるような、ゆったりとした触れ合い。
ノルの静かな動きに、アキヒロの体から力が抜けて行く。
もはや、世間体を気にする必要がないのだと思うと、気兼ねなしに身を委ねることができていた。
やがて、後頭部に手が回り、引き寄せられ、深く重なり合う。

「う・・・ん・・・」
鼻から抜けるような声と共に、温かな吐息を漏らす。
ゆったりとした動きでも、何度も絡め取られると心音の反応が徐々に強くなっていくようだった。


ノルが唇を話し、アキヒロを解放する。
アキヒロは、募りつつあった熱を吐き出すように息をついた。
まだノルは離れず、首元に身を寄せる。
いつになく積極的な様子を見て、アキヒロは察した。

「・・・したい、のか・・・?」
「はい。明後日からは、激務になると聞きました」
明日では、翌日の仕事に支障が出る。
仕事が再開したら、休みがないわけではないが、気力と体力は削がれているだろう。
だから、今日しかなかった。
ノルと、深い関わり合いをするのは、今夜しかない。

アキヒロがじっとしていると、ノルはその首へ軽く唇を触れさせる。
応えてあげたい、そんな思いが湧き上がっていた。

「・・・・・・わかった。ノルと・・・する」
アキヒロは控えめに呟き、心を決めた。
「ありがとうございます、アキヒロさん」
ノルが、平坦な口調で感謝を示す。
その頬は、以前のように、ほんのわずかに緩んでいる気がしていた。




―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
とうとう最後のフラグ回。次のいかがわしい話で、最後になります。