何とも平和な国5


あくる日の深夜、ノアはこっそりと外へ出ていた
外と言っても、城の敷地内にある広い庭で、とある人物と待ち合わせをしていた
庭に着くと、すでに待ち合わせの人物が佇んでいるのが見える
ノアは、静かに声をかけた

「・・・ネロ」
ノアの声に、その人物は振り返った
「王子、お久しぶりです」
軽やかな声で返事をしたのは、二十代後半ほどの、若々しい青年だ
銀縁のメガネが月明かりに照らされ、きらりと光る

「何か、新しい薬ができたのか?」
「はい、こちらです」
ネロはポケットから、小さな瓶を取り出す
それはしゃれた形をしており、まるで香水のようだった
「綺麗だな。これは、どんな効果があるんだ?」
ノアは、興味深そうに問いかける

「これは、動物を懐かせる薬です。
一吹きすれば、どんな獰猛な動物だって王子を襲うことはなくなります」
好奇心に満ちたノアの目が嬉しかったのか、ネロは高らかに説明した
「へえ、使い所を考えれば便利そうだな。いつもと同じで、金貨一枚でいいか?」
「十分です、いつもありがとうございます」
ネロはうやうやしく、差し出された金貨を受け取った
たまに、夜中にこっそりと、こうして珍しい薬を売ってもらう
あまり街に出かけられない、ノアのひそかな楽しみだった」

「じゃあ、僕は寝る。これからも、面白い薬を作ってくれよ」
ノアは新しい遊び道具を手に入れたかのようにうきうきとして、薬をポケットにしまった
「はい、王子。失礼いたします」
ネロは一礼し、その場を後にした
動物を懐かせる薬を、どう使えば面白いことができるだろうか
ノアはそれを考えつつ、自室に戻っていった




「クラウツ、もう一度兎がいた森に連れて行ってくれないか?」
朝起きるなり、ノアはそう頼んでいた
昨日、眠る前にいいことを思いつき、それを実行に起こしたくて仕方がなかった
「わかりました。朝食を食べ終えたら、行きましょう」
簡単に了承したクラウツに、ノアは内心ほくそ笑んだ
今日は、前のおかえしをしてやれるかもしれない
もしかしたら、クラウツの驚くさまも見られるかもしれないと思うと、意気揚々としていた

朝食の後、ノアはクラウツをせかし、すぐに森へ連れて行ってもらった
今日は、パン粉はいらないと言ってから
クラウツはそれを不思議そうに思う様子もなく、いつもとかわりない無表情だった
もうすぐ、その顔を崩してやれる
目的地へ着く間、ちゃんと薬を持ってきたかと、ノアは何度もポケットを気にしていた
そして、とうとう目的の、開けた場所へ辿り着いた

「王子、何か餌がないと兎は出て来ませんよ」
「ああ、いいんだ。今日は、これがあるから・・・」
早速薬を振りかけてやろうと、ノアはポケットに手を伸ばす
しかし、そこにあるはずの小瓶は、いつの間にかなくなっていた
「・・・おや?」
まさか、ポケットに穴でも空いていたのかと、念入りに中を探す
しかし、どう探ってもそこに小瓶はなかった


「王子は、香水などお付けになるのですね」
はっとして、クラウツの方を見る
その手の中には、今しがた探している小瓶が握られていた
「お、お前!王子の私物を勝手に・・・」
「折角なので、つけてさしあげます」
ノアが言葉を言い終える前に、クラウツは小瓶の蓋を取る
そして、ノアにノズルを向け、薬を振りかけた

「ぶわっ!」
薬をもろに浴びてしまい、ノアはふるふると頭を振る
とたんに、甘いような、酸っぱいような、何とも奇妙な香りが辺りに広がる
その直後、森の中で多くの気配がした
ノアがとっさに森の中へ目を向けると、何匹もの兎がノアめがけて駆け寄って来た

「わわわ、うわっ!」
駆け寄って来たとたんに思い切り飛び付かれ、いつかのように思い切り尻餅をついてしまった
そして、瞬く間に兎達に囲まれ、鼻を押し付けられる
しきりに匂いをかいでいるのか、もこもことした感触がくすぐったくてたまらない

「ま、また、同じパターン・・・っ、あはははっ!」
ふわふわもこもこした感触は、悪いことではない
けれど、本来、今兎に囲まれているのはクラウツのはずだった
兎に囲まれ、驚いている様を見たかったのに、結局前と変わらぬ結果になり
ノアは笑いつつも、思うように事を運べず悔しく思っていた




その日の夜、ノアはまた、昨日と同じ庭へ来ていた
「ネロ、昨日の今日で、欲しいものがあるんだが・・・」
「はい、王子の御頼みとあらば、何なりと」
「動物を懐かせる薬、あれは効果抜群だった。それで、あれを人間にも応用できないか?」
人間だって、生物の内なのだから
あれが動物に効くのであれば、少し改良すれば人に対しても効果を発揮するのではないかと思っていた

「もしかしたら、そんなご要望が出るかと思いまして、実は試作品を持ってきているのです」
ネロは、嬉しそうに昨日と色違いの小瓶を取り出した
中には液体ではなく、小さな錠剤が詰められている
「これなら、人に対しても効き目があるはずです。
けれど、申し訳ありませんが、試作品の段階ですので・・・効果時間がどれほど続くかはわかっていないのです」
効果時間なんて、10分ほどあれば十分だった
少しだけでも、クラウツの表情を崩すことができればそれでいい

「試作品でもいいから、それを試させてくれ。今日は、金貨二枚払う」
ノアは躊躇うことなく、金貨を手渡した
ネロは少し遠慮するような様子を見せたが、ありがたそうに受け取った
「ありがとうございます。それでは・・・お休みなさいませ」
ノアの目はすでに、その小瓶に釘付けになっている
これがあれば、今度こそクラウツに何らかの変化をもたらすことができる
それを楽しみにしながら、ノアは自室に戻り、どうやって錠剤を飲ませるか考えた




翌日、ノアは、昼食の後に紅茶を淹れていた
朝から何かと張り切っては、また感付かれるかもしれないと思い
楽しみを抑えつつ、午前中はいたって普通に過ごしていた
紅茶が入れば、クラウツを呼ぶつもりだ
カップの中には、昨日買ってきた錠剤を入れて、慣れない手つきで紅茶を注いでゆく
わざわざ王子が入れた紅茶を、断りはしないだろう

不自然ではないように、自分の分のカップも置いてある
錠剤のせいで味が変わらないことを祈るが、味見をするわけにはいかない
薬が完全に溶けたのを見計らい、ノアはクラウツを呼ぼうと廊下へ出る
長い廊下を見渡すと、ちょうどこっちへ向かって歩いてくるクラウツを見つけた

「クラウツ、ちょっと来てくれないか」
怪しまれないよう、いつもと声の調子を変えずに手招きする
「何か、御用事ですか?」
「さっき、紅茶を淹れてみたんだ。
それで、うまくできたかどうかわからないから、お前に味見してほしいんだ」
前もって考えておいた台詞を言いつつ、クラウツをテーブルの方へ誘導する
森へ行く時は、ポケットを気にしすぎたのがいけなかったのだろうが、今度こそ怪しまれない自身はあった

「紅茶ですか、王子が淹れるなんて珍しいですね」
その言葉に、ぎくりとする
けれど、ここへ来てその紅茶を捨てることはしないだろう
クラウツを椅子に座らせ、ノアはその正面に座った
「さあ、冷めない内に飲んでくれ」
あまり時間が経つと、湯気と共に薬の成分が飛んでいってしまうかもしれない

「では、いただきましょうか」
クラウツが、カップを手に取る
いよいよ、薬の効果が見られるのかと、ノアの好奇心は最高潮に達する
それを抑えられなかったのか、ついクラウツの方をじっと凝視してしまっていた
「・・・王子、あまり見られていては落ち着きません。飲み終えるまで、向こうへ行って下さい」
「あ、ああ、すまん、わかった」
ノアはぎこちなく立ち上がり、テーブルから離れてあさっての方向を向いた

今頃、クラウツは紅茶を飲んでいることだろう
そういえば、どれくらいの時間で効果が現れるのを聞いていなかったが
いずれ、様子が変化するのは間違いない


テーブルを離れてから数分後
もういいだろうと、ノアは元の場所へ戻る
そうして椅子に座ると、自分のカップに紅茶が注いであった

「王子の淹れた紅茶、おいしかったですよ。
お返しに、私の淹れた紅茶もどうぞお飲みになって下さい」
「そ、そうか、良かった」
クラウツのカップを見ると、ちゃんと空になっていた
これで、いずれ効果が表れることだろう
その時が楽しみで楽しみで、ノアは自分の前に置かれた紅茶を一気に飲み干した

そのとき、少し妙なことに気付く
これは、クラウツが淹れた紅茶だと言っていたが
どこか甘いような、酸っぱいような、そんな味が混じっている
そして、昨日嗅いだような、そんな香りもする
飲みほした後で、まさかと思った
もしかして、自分が今、飲んだのは―――

「王子、どうかなさいましたか?」
しれっとした顔で、クラウツが尋ねかける
「な、何でもない、何でも・・・」
言葉を言いかけたとき、一瞬だが、視界がぼんやりとした
脳の一部が痺れてしまったような、そんな感覚がする
気付けば、ノアは立ち上がり、クラウツに歩み寄っていた


「クラウツ・・・こっちへ来てくれ」
ノアはクラウツの腕を取り、立ち上がらせる
そして、自分のベッドの前まで連れてゆき、そこへ腰かけた
どうしたのだろうか、なぜ、ベッドに二人並んで座ったのかとノアは自問する
その理由が思いつかないまま腕を離すと、今度はクラウツの手を握っていた

「お前の手は、温かいな・・・。兎なんかより、よほど温かい・・・」
「紅茶を飲んで、王子の手が暖まっているからではないですか」
それもあるだろうと思ったが、それだけではない
触れている手が、本当に、やけに温かく感じる
まるで、掌が感度を増しているような、そんな感じがしていた
それに伴い、声の調子も力が入らず、気の抜けたようなものに変化しているのがわかる
ここで、クラウツはノアの異変に気付き、その原因にも気付いていた
紅茶の中に、何か、薬を盛っていたのだと

「王子、私の紅茶の中に、何を入れていたのですか?」
その問いかけに、ノアは沈黙する
「・・・言えない、お前の紅茶に、何を入れていたかなんて、言えない・・・」
理性が必死に言葉を押し留めているのか、詳細は説明されなかった
何かを一服盛ったことは確かなのかと、クラウツは小さく溜息をついた
言わないならば、言いたくなるようにすればいい
クラウツは、この状況ならではの解決策をすぐに思いついていた

「教えて下さい、王子・・・」
口調を、柔らかなものにして問いかける
そして、言葉と同時に、ノアの頬へ手を伸ばした
「あ・・・」
ノアの頬に、クラウツの掌が添えられる
やけに温かく感じる体温と、やけに鮮明に感じる掌の感触
それが心地良くて、ノアの瞳はうっとりとしていた


「もう一度聞きますよ。私の紅茶に、何を入れたのですか?」
とどめというように、クラウツはノアの頬をゆっくりと撫でる
そうされるだけで、ノアの体から力が抜けてゆき、思考も麻痺してゆくようだった
「・・・昨日・・・使った、動物を懐かせる薬の、改良版・・・
これを使えば、人も、同じようになるって、そう言われて・・・」
言わないでおこうと思ったことが、ぽろりと口から零れてしまう

「誰に、そう言われたのですか?」
ノアが素直に答えを言ったのをいいことに、クラウツは矢継ぎ早に質問した
「・・・それは・・・・・・」
流石にそこまで言うわけにはいかないと、ノアは閉口する
夜にこっそり外へ出ているのがばれてしまうし、こっそり薬を買っているのもばれてしまう
今度こそ答えまいと、途切れそうになる理性を何とか保っていた
渋っている様子を見て、クラウツは一旦手を引く
しかし、頬から手を離した次の瞬間、ノアの体を強く引き寄せていた

「あぁ・・・」
思わず、溜息のような、感嘆のような声が発される
とたんに、肩も、腕も、足も密着して、急に触れる面積が多くなり、伝わる温度も増す
そして、感じる心地良さも


「誰に、薬の効果を聞いたのですか?」
クラウツは質問と共に、肩にまわす手に力を込め、ノアの体をさらに引き寄せる
その瞬間、ノアの心音はふいに高鳴り、また口を開いていた
「ネロ・・・ネロっていう、薬売りから、聞いた・・・
いろいろ、面白そうなものを、売ってくれるから・・・」
勝手に動く口を、止めることができない
クラウツに体のどこかを触れられるたびに、抑制がきかなくなってゆく

「それは、いつ、どうやって買っているのですか?」
これを言えば、全てがばれてしまい、夜中に、外へ出ることが禁じられてしまうかもしれない
言いたくなかった、言いたくなかった、けれど―――

「教えて下さい、王子・・・」
答えずにはいられなくさせようと、クラウツはノアの耳元に唇を寄せ、囁きかけるように問うた
「あ、ぁ・・・」
熱い吐息が耳朶にかかると、ノアは再び心音の高鳴りを感じる
それが、とてつもなく心地良くて、うっとりとしてしまって
もう、口をつぐんでいることなんてできなかった

「よ・・・夜中に・・・外の、庭へ出て・・・そこで、待ち合わせて、買ってる・・・
僕が行くと、たいてい、そこにいてくれる・・・」
とうとう、言ってしまった
けれど、後悔はしていない
それ以上に、今、この状態に酔ってしまっていた
答えに満足したのか、クラウツはノアから手を離す
肩に添えられていた温かみがなくなり、ノアは寂しさを覚えた


「もう、その者とは会わないようにして下さい。いいですね」
「え・・・」
クラウツにそう言われても、数少ない楽しみを奪われるのは嫌だった
迷うように、ノアは視線を落とす
けれど、ノアの答えなど関係ないのか、クラウツはベッドから下りようとした

「ま、待ってくれ」
とっさに手を伸ばし、クラウツを引き止める
それはほとんど反射的な行動で、まだ行ってほしくないという思いだけがノアを動かしていた
腕を取られ、クラウツはその場に留まる

「わかった・・・もう会わないようにする。そうするから・・・
・・・もう少しだけ、触れさせていてほしい・・・」
ノアは、今度は自ら、クラウツの方へ寄り添う
もう、伝えるべきことは伝えきっている
情報を引き出す必要がなくなった今、もしかしたら突っぱねられてしまうかと思ったが
クラウツは黙って、ノアの肩に手をまわしていた

それが嬉しくて、ノアは甘えるように、クラウツの肩へもたれかかった
肩に頭を置き、目を閉じる
こうして寄り添うことが、大きな安心感を与えてくれる
それは、薬の効果でしかないとわかっていても
クラウツと接しているこの時を、幸せだと感じずにはいられなかった




―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
かなりの長さ+いちゃつきっぷりでお送りいたしました
ここから、うんにゃらかんにゃら進行させていこうかと思っています