何とも平和な国9


今日、ノアは今までで一番早く起床した
この一日は、クラウツと共に過ごすことができる
それだけではなく、何でも、望むことをしてくれる
朝から、楽しみで楽しみで仕方がなくて、完璧に目が冴えていて
ノアは身だしなみを整えると、早速クラウツの元へ行った

「クラウツ、今日は・・・何でも、言うことをきいてくれるんだな?」
「はい。何でも王子の仰せの通りにいたします」
クラウツは、うやうやしく一礼する
これから、一日という短い時間だけでも、共に過ごすことができる
まず何を頼もうかと、ノアは真剣に考えた

「そうだな・・・まず、また兎の森に連れて行ってくれ。
もちろん、あの動物を引き寄せる香水を持ってな」
「かしこまりました」
やたらと丁寧な態度に、他人行儀のような堅苦しいものがあったが
もしかしたら、どんな命令をされるだろうかと緊張しているのかもしれない
いつも手玉に取られてばかりだったけれど、今日は立場が逆だ
これで最後になるのなら、思う存分楽しもうと、ノアは今からうきうきとしていた


二人は、動物を引き寄せる香水だけを持って、森へ行く
もう道を覚えているのか、ノアの方が先導して歩いていた
「よし、着いたな」
ほどなくして、目的地の開けた場所に辿り着いた
クラウツが執事になってから、最初に来た場所
もう二度と、共にここへ来ることはできないかもしれない
そんな寂しさが、脳裏をよぎる
けれど、その寂しさを振り払うかのように、ノアは持って来た香水をがむしゃらに振りまいた

周囲に散布され、自分にも、クラウツにも振りかかる
容器をしまうと同時に森の中で動物の気配がし、兎が一直線に駆けてきた
「お、来た来・・・わわっ」
多くの兎がかなりの勢いで突進してきて、迫力のある勢いに気圧されてノアは尻餅をつく
そうしたとたん、瞬く間に兎に取り囲まれ、体に乗られ、鼻先を押し付けられていた

「ま、まさか、こんなに来るなんて・・・あははははっ」
柔らかくてくすぐったい感触に、笑い声をあげずにはいられなくなる
これなら、クラウツも反応しないわけにはいかないだろうと、隣を見たが
クラウツは兎に取り囲まれ、体の上にも乗られているのに、その表情を崩してはいなかった
まるで、くすぐったいという感覚がないかのように、平然としている


「クラウツ、お前はくすぐったくはないのか?」
「温かい、とは思いますが、特にそうは思いません」
それは本当のことのようで、笑いを堪えている様子はなかった
「何だ、そうなのか・・・折角、お前の笑った顔が見られると思ったのに」
ノアは、クラウツの笑顔が見たくてここに来ていた
一度だけ驚いた様子を見たことはあっても、それ以外の変化を見たことはない
明日になる前に、ぜひ笑顔を見てみたかったのだが、それは叶わないことのようで
くすぐったくて笑ってはいたものの、満たされないものを感じていた




香水の効果が切れ、兎が離れた後、二人は城へと戻った
思う存分笑ったノアだったが、こんなものでは満足していない
最も望んでいることは、兎ではなくクラウツと接することなのだから
「じゃあ、次の願いだ。クラウツ、お前と一緒に街へ行きたい」
「女装をして、ですか?」
クラウツは、少し冗談めかして尋ねる

「ああ、もちろんだ。皆がへりくだっていては、つまらないだろう?」
ノアは、当然だというようにすぐに答える
以前、誰一人として女装を見破られなかったので自信がついていた
「かしこまりました。仰せの通りにいたしましょう」
クラウツは、また他人行儀の様なうやうやしい礼をし、服を取りに行った


その後、女物の衣服を身に付けたノアは、クラウツと共に意気揚々と街へ来ていた
もはや、恥など微塵も感じない
一人で来るだけでも楽しい街に、自分の望む相手と来ているのだから、心踊らないはずはなかった

「行こう、クラウツ」
ノアは、クラウツの手を取り街中を歩く
その手は振り払われることなく、やんわりと握り返される
温かい、掌の温もりを感じると、自然と頬がほんのり染まるようだった

二人は手を繋いだまま、店を回る
怪しげな薬売りの店にも、女性ばかりのお菓子店にも遠慮なく入る
物珍しいものを見るのはもちろん楽しいことで、それに加え、今はクラウツが傍にいて、手を握ってくれている
それだけで楽しさは倍増し、ノアの笑顔は絶えなかった

けれど、今日一日を街中で過ごすわけにはいかない
店を見るのはここで最後にしようと、ノアは小さな宝石店に入った
そこには、パーティ会場で見るようなきらびやかなものはあまりない、庶民的な店だったが
だからこそ、あまり見たことのない装飾品に目を奪われていた


「綺麗だなぁ・・・」
特別、高価な宝石が使われているわけではないが、造形の美しさには目を見張るものがいくつもある
しげしげとそれらを眺めていると、一人の店員が声をかけてきた
「お嬢様、よろしければ、お付けになられますか?」
「え、いいの?」
もう、お嬢様と呼びかけられても、すぐに反応するようになってしまっている
そんな自分を滑稽に思いつつ、ノアは進められたアクセサリーを手に取った

花の形がかたどられている、薄いピンク色をしたシンプルな髪飾りを、クリップを止めて髪に付けてみる
鏡を見ると、その髪飾り一つで印象が変わるようだった
一目で女物とわかるものだが、まんざらでもない

「うん、かわいい・・・これ、買っていこうかな」
そう言ったとき、ふいにクラウツが髪飾りを取った
女物の髪飾りを買うのは恥ずかしいと思ったのだろうかと、一瞬不安になる
「こちらの方が、似合うのではないですか」
そう言って差し出されたのは、蝶をかたどった髪飾りで
羽にはかわいらしい小さな宝石がつき、輝いていた
まさか、こうして勧めてくれるとは思わず、一瞬呆けてしまう
クラウツがその髪飾りを付けてくれたとき、ノアはどきりとしていた

「あ・・・う、うん、こっちの方が、かわいい」
「では、こちらをいただけますか」
返事を聞くと、クラウツはすぐに髪飾りを購入した
無関心だったように見えたクラウツが、ちゃんと自分のことを見ていてくれて、髪飾りまで見立ててくれた
ノアは例えようのない幸せと、胸の内に溢れる温かさを実感していた




城に戻って来たのは暗くなる直前で、色々歩き回ったので流石に疲労していた
ノアは服を脱いで一息つこうかと思ったが、ふと思いついたことがあった
「クラウツ、あの・・・」
少し恥ずかしい思いつきに、言葉が途切れる
しかし、今、言ってしまわなければならないのだと、すぐに続きを言った

「あの・・・ベッドまで、運んでくれないか?前みたいに・・・」
それは、以前のようにお姫様抱っこをしてほしいと頼んでいるのと同じで、恥ずかしくて声が小さくなった
クラウツは返事をする前に、ノアへ歩み寄る
そして、小柄な体をさっと抱え上げた

ふわりと、ノアの体が持ち上がる
そのとき、急に自分からもクラウツに触れたくなり、首に腕をまわし、すがるように身を寄せた
それを合図にしたかのように、クラウツがゆっくりと歩みを進めてゆく

はたから見れば、なんと女々しい光景だろうかと思うことだろう
それでも、女々しくとも構わない
こうして、クラウツの腕に支えられ、身を寄せることができるのなら何だってよかった


ベッドまでは、一分もかからない内に着いてしまった
もっと部屋が広くて、その距離が果てしないものであったらいいのに
この腕を解いてしまうのが惜しくてたまらない
いくらそう思っていても、ベッドに下ろされたら、離れなければならなかった

「着替えの間、私は席を外しておきます」
そう言って、クラウツは部屋を出て行く
別に、着替えるところを見られても、気にすることはない
クラウツになら、全てを見られても構わないとそんな確信があった
ノアは、蝶の髪飾りを外し、じっと見詰める
そして、とても大切なものを扱うように、そっと両手で包み込んだ




時間は、楽しければ楽しいほどあっという間に過ぎてゆき、残り時間は少なくなってきていた
明日になれば、今日のような幸せを二度と味わうことができなくなってしまう
残りの数時間は、ずっと、クラウツと共に過ごしたかった

「クラウツ、今日は・・・一緒に、寝てくれるか・・・?」
拒まないと約束されていても、やはり緊張してしまう
窺いたてるような問いに、クラウツは頷いた
「最後まで・・・今日、この日が終わるときまで、お傍におります」

二人は、同じベッドに横になる
この状態でも、何を願ってもいいのだ
それを思うと、何を言っていいのかわからなくなる
けれど、早く言わなければどんどん時間が過ぎていってしまう
焦りだけが先走り、ノアは何かを言う前にクラウツの手を握っていた


こうして触れると、温かくて、幸せになる
けれど、それだけでは足りない
自分の気持ちをを満たしたいと思うが、いざとなると、どうしようかという思いばかりが渦巻いてしまう

焦りに焦って、思考がうまく働かない
頭の中が混乱ぎみになっていると、ふいにクラウツが手を離した
呆れられてしまったのかと思った、そのとき
クラウツが、ノアの体の上に覆い被さった

「あ・・・ク、クラウツ・・・」
突然、クラウツの顔が真正面にきて、心音の落ち着きがなくなる
「王子、王子は私に、どうされたいのですか?・・・何でもいいのですよ」
その言葉は、まるで何か命じてほしいと、そう言っているかのようだった

「クラウツ・・・」
渦巻いていた想いが、静まってくる
何をしたいかではなく、どうされたいか
その望みは、すぐに浮かんできた


「・・・撫でてほしい。頭とか、頬とか、首とかに・・・触れてほしい」
してくれないかと尋ねかけるのではなく、してほしいと、はっきりと言った
「仰せのままに・・・」
クラウツはそう答えると、手を伸ばし、優しげな手つきでノアの髪を撫でる
「ん・・・」
掌で撫でるだけではなく、指が髪をすいてゆく
髪はさらさらと流れ、その隙間を通る指の感触が心地良かった

次に、手は頬へと移動する
今度は指先ではなく、広い掌が添えられた
包まれたその頬から、温かさが広がってゆく
手を添えるだけではなく、そっと撫でられると、ノアはうっとりとしてしまっていた
気が抜けたような表情を見られることに、羞恥がないわけではない
けれど、今は、この感覚に逆らいたくはなかった

頬を撫でる手は、一旦離れる
そして、今度は指先がノアの首をなぞっていった
「ぁ・・・」
首筋をなぞられた瞬間、寒気にも似たようなものを感じ、か細い声が出る
その寒気は、ぞっとするようなものではなく、嫌なものでもなかった
指先は、頬骨の辺りから愛撫するように首元までをなぞってゆく
そうされるたびに、ノアの息は熱くなっていった


やがて、首への愛撫も終わる
ノアは、高鳴る心臓を落ち着かせるように息をつく
けれど、それくらいでは静まってくれなくて
むしろ、音に伴い、体に熱が上ってゆくようだった

「王子・・・他に、してほしいことはありますか?」
「他に・・・」
他に、何をしてほしいだろうか
何をされなくとも、体が密接していて、それだけでも幸せだった
それでも、どこかで、まだ足りないと、そう言っている
触れてほしい
もっと、胸を高鳴らせる様なところへ



「・・・て、ほしい・・・」
その願いを言うのはとても恥ずかしくて、声が思うように出ない
「どうぞ、望んで下さい。どうしてほしいのですか・・・?」
優しい声で、問いかけられる
その声に惹かれるように、ノアは告げていた

「口・・・付けて・・・・・・口付けてほしい・・・。
お前の、唇で・・・触れて、ほしい・・・」
恥を忍んで、声を振り絞った
これ以上のことは、思いつかない
本来なら、恋仲にある者がする行為
これが、最上の幸福感を与えてくれるものなのだろうと、ノアはそう思っていた

「王子の、望むままに・・・」
クラウツの呟きが聞こえると同時に、視線が交わる
そして、徐々にその瞳が近付いてきた
少し距離が詰まるだけでもまた落ち着きがなくなってゆき、距離がなくなる直前で、ノアは目を閉じる
その瞬間、お互いが重なった


柔らかで、温かな唇の感触を、鮮明に感じる
今、クラウツと重なっているんだと思うと
ただ、掌で触れられたときよりもずっと強く心臓が鳴り、熱が上ってゆく
やがて、優しく合わされた唇は、やがて深く重ねられるようになった

「んん・・・」
より鮮明に感じるようになった感触に、鼻から抜けるような声が出る
こうしていることが、あまりに温かくて、心地良くて、このまま眠ってしまいそうになる
クラウツと唇を触れ合わせているとき、ノアはこれ以上にない幸せを感じていた

いくら心地良くても、いつまでも重ねているわけにはいかず、やがてクラウツが身を離す
もう、離れて行ってしまうのか
名残惜しく思ったそのとき、再びクラウツは身を下ろし、ノアをそっと抱きしめた

「クラウツ・・・」
覆い被さって来たその身を、抱きしめ返そうと思った
けれど、直前で腕が止まる
その前に、どうしても聞いておきたいことがあったから


「クラウツ・・・お前は、僕のことを好いているか・・・?」
明日になれば、もう問うことはできない
今日が終わる前に、答えてほしかった

「はい、王子のことは、大切なご子息だと・・・」
「そんな堅苦しい言葉を聞きたいんじゃない!
今は、今だけは、僕が王子であることを忘れてくれ・・・。僕は、お前の本心が聞きたいんだ・・・!」
仕えている相手を、嫌いだと言う従者はいない
そうではなく、今聞きたいのは、本心からの気持ちだった

戸惑っているのか、迷っているのか、答えは聞こえてこない
日付が変わるまでなら、何十分でも、何時間でも待つつもりだった
「・・・・・・・・・」
ふいに、囁きとも、呟きともとれないほどの、微かな声が耳に届く
言った本人も、これでは伝わっていないだろうとわかったのか、もう一度言った


「・・・・・・誰よりもお慕いしています、ノア王子。主従関係には、行き過ぎているほど・・・」
その言葉を聞いた瞬間、ノアは、強くクラウツを抱きしめていた
今、確かに聞こえた
王子と執事以上の好意を持っているという、肯定の言葉が

「ありがとう・・・ありがとう、クラウツ・・・。
これで、これで十分だ。これで、僕は満たされる・・・ありがとう・・・」
いつの間にか、涙が零れ落ちていた
慕っていると、そう言ってくれた
最も求めている相手から、その言葉を聞けた

満たされてゆく
もう、虚しさも、寂しさも感じない
明日になっても、この想いは消えることはないだろう
相手にされなくなっても、決して忘れない
たとえ、どこかの姫と睦まじくなっても、決して―――




―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
クラウツはいつも無表情でも、内心ではノアのことを想っていた・・・と、そんな感じにしてみました
そろそろ、クライマックスにする予定ですー