No. 6 #10


は、喉の痛みと共に目を覚ました。
乾燥しやすい冬の空気のせいだろうか、唾を飲み込むたびに喉に痛みが走る。
それに、寝起きはいつもぼんやりとしているものだが、今日はいつも以上に頭が冴えない。
溜め置きの冷たい水で顔を洗っても、まだ顔に火照りが残っている。
そろそろ脳が起きてもいい頃なのに、さっきからずっと寝起きのようだ。
咳は出ないものの、これは風邪をひいてしまったのかもしれない。

それなら眠れるだけ眠って早く治してしまおうと、はもう一度ベッドに横になろうとする。
その時、玄関のほうから扉を叩く音がした。
わざわざ着替えるのも面倒だったので、寝着のまま扉を開ける。
そして、そこに立っている人物を確認すると、すぐに扉を閉めようとした。

「おい、いくら何でもいきなり閉める事はないだろ」
ネズミは閉じようとする扉の取っ手を掴み阻止する。


「・・・何か用事でもあるのか」
は、少しネズミから離れて言った。
できれば、今日は会いたくなかった。
今は体調が悪く、一人でゆっくりしていたいし、ネズミに風邪をうつしたくもない。

「紫苑からの届け物だ。昨日、いつの間にかフードの中に入ってたんだと」
ネズミは、ポケットから一枚の写真を取り出した。

「あ・・・!」
は息を呑む。
それは、昨日なくしたと思っていた写真だった。
「返してくれ!」
ネズミの手から写真を奪おうと急に動いたとたん、視界が歪んだ。
膝から力が抜け、倒れそうになる。
よろめいたに、ネズミはすかさず肩を貸して支えた。

「おい、大丈夫か」
「ああ・・・平気だ。だから、写真を置いて帰ってくれ」
彼には、感の鋭いネズミには写真を見せたくなかった。
それなのに、もう見られてしまった。
正直、あまり大丈夫な状態ではないが写真について何か聞かれる前に、ネズミを帰してしまいたかった。

「とても平気な様子には見えないけどな」
は無言でいる。
肩に回されているネズミの手を振り払う事さえできない。
これ以上平気だと言っても、説得力はなかった。

「あんたは以前、おれを助けてくれた。今度はおれが借りを返す番だ」
そう言われると、反論できなくなる。
大人しく、はそのままベッドへ運ばれて行った。




がベッドに横になると、ネズミは椅子を取って来て、ベッドの横に置いて座った。
見降ろされているのは落ち着かなかったので、上半身だけ起こしてネズミを見る。
「・・・写真、返してくれないか」
「この写真、そんなに大切な物なのか?」
写っているのは、一人の少女だった。
豪邸の一室で、何の前触れも無く撮られたような写真。
記念写真というわけでもなさそうだ。
結構古いもののようで、右下に印刷されている日付は文字がかすれ、2003年という西暦しか見えなくなっている。

何の変哲もないように見えるこの写真にどうしては顔色を変え、取り戻そうとしたのか。
この少女の写真はよほど大切なものなのかと、ネズミは興味を抱いていた。

「とにかく、早く返してくれ」
「はいはい、ナイトの御所望なら仕方ない」
はネズミからその写真を受け取ると、すぐさまそれを破り始めた。
写真はバラバラになり、床に舞い落ちる。
その写真は大切な物だと思っていたネズミは、思わず尋ねた。

「それ、大切な写真じゃなかったのか」
は、そんなわけあるはずはないと言いたげにふっと鼻で笑った。
「・・・逆だよ。できれば、誰かに見られる前に処分したかったんだけど」
これでようやく切り捨てる事ができたが、すでに写真はネズミに見られてしまった。
は、これから聞かれるであろう事柄に対しての答えを考える。

「処分したかったって、写真に嫌な思い出でもあるのか」
やはり、ネズミは写真の事を聞いてきた。
下手なごまかしは彼には通用しないだろう。
何とか、もっともらしい答えを言わなければならない。


「・・・写真に写ってた少女・・・あれは、僕の・・・・・・妹だ」
は言いづらそうに、俯きがちに続ける。
「僕が、No. 6で殺してきた妹・・・まだ、5才だった」
悲劇的なことを言えば、もう追究してはこないだろう。
それに、妹を殺した事は事実だ。
あの時は、妹の年齢すら知らなかったけれど・・・。

ネズミは黙っていた。
が写真の少女を殺したと言っても、あまり気にしていないようだった。
他に思う事があったからだ。

今、は5才の妹を殺したと言った。
確かに、写真の少女はそれくらいの年齢に見えた。
しかし、その時の写真の西暦は2003年、今は2013年だ。
そうすると、少女は10年ほど前に死んだことになる。
10年前だとすると、は6、7才だろう。
本当に、そんなに幼い時に殺人を犯したのだろうか。

ありえなくはないが、信じられなかった。
は写真について何か隠し事をしている。
殺人をカモフラージュにしてまで隠したかった事とは、何なのか。
考えれば考えるほど、ネズミには新たな疑惑が浮かんできていた。




しばらくお互い黙っていると、どこからか、チチッという鳴き声が聞こえた。
「そうだ、こいつがあんたに礼を言いたいんだと」
がネズミのほうに視線を戻すと、肩に一匹の子ネズミが乗っていた。
が手を差し出して自分の方へ来るように促すと、子ネズミは跳び跳ねて肩に上った。

「そうか、あの時ネズミを助けた事に感謝してくれてるんだな」
子ネズミは返事をするように、チチッと鳴いた。
以前のように耳の裏を掻いてやると、気持ちよさそうにして手にすりよってくる。
そのかわいらしい仕草に、思わず頬が緩んだ。

「やっぱりいいな、動物は。本当にかわいい」
子ネズミはそれを理解したのか、嬉しそうに小さく鳴く。
は、自然と目を細めて微笑んでいだ。
ネズミは、意外そうな目でその様子を見ている。
今まで、が他人の目の前で、こんな風に笑みを浮かべるところを見た事がなかった。

いつも警戒心を忘れない相手が、こんなにも無防備に笑っている。
その時、以前とはまた違う思いが湧き上がってきているのを感じていた。
そして、ほとんど無意識に、の頬に手を伸ばしていた。
子ネズミがいて機嫌が良いからか、はネズミの手が頬に触れても拒まなかった。


「ネズミの手、冷たくて気持ち良いな・・・」
寒い部屋の中で冷やされたネズミの手はとても冷たく、その心地良さには目を閉じる。
そして、その手に、自分の手を重ねた。
手袋はしていても、自分から相手に触れる事は初めてだった。
しかし、今は熱を冷ましてくれるその冷たいものを求めていた。

その瞬間、ネズミの中に湧き上がっていた思いはとたんに膨れ上がった。
抑えつけられなくなったその衝動が駆り立てられる。
雰囲気の変わったネズミに気付いたのか、の肩に乗っていた子ネズミはどこかへ走って行ってしまった。

「・・・ネズミ?」
も雰囲気が変わった事に気付き、目を開く。
さっきまで椅子に座っていたはずのネズミは、膝をついてベッドに乗ってきていた。
頬に添えられていた手が、なだらかな動作で下りてきて、首筋をなぞる。
その指先の動きに、は少し肩を震わせた。

首を滑り落ちた手は肩に添えられ、もう片方の手がまた首元に添えられる。
ひんやりとした手の温度が、は心地よくなった。
首を冷やしてくれているのだろうかと思った矢先、ネズミが首元に顔を移動させる。
そして、何か柔らかい物が首に当たった。
それがネズミの唇だとわかるのに、時間はかからなかった。


「ネズミ、何を・・・!?」
ネズミの手はこんなにも冷たいのに、触れている唇も、首のすぐ傍で感じる吐息も、とても熱く感じる。
唇はすぐに離れたが、その個所にはまだ熱が残っている感じがした。
柔いものは皮膚の上を滑るように移動してゆき、ただでさえ高い体温が上昇していく。

「っ・・・ダメだ・・・」
は、その行為を拒否するように横を向く。
すると、今度は耳元に温かいものを感じた。
「!?あ・・・っ・・・」
首よりも敏感なその箇所にに口付けられ、反射的に声が発された。
そして、耳に感じるものはそれだけではなかった。
唇と、もう一つ、これもまた柔らかく温いものだったが、また違う感触を感じる。

「ん・・・あ・・・ぅ・・・」
それがわずかに耳朶に触れ、少し上に動いただけで、また声が発されてしまう。
熱のせいなのか、ネズミの行為のせいなのか、心臓の鼓動が早くなっていく。
は声を発する事が無性に恥ずかしくなり、奥歯を噛んで必死に耐えていた。

駄目だ、こんな事をしてはいけない、紫苑は拒んで、ネズミは受け入れるなんて事をしてはいけない。
拒まなければ、そうしなければ後後自分が辛くなり、絶望に襲われる事になるのだから。


が口をつぐんでいると、ネズミはそれを解くように唇を指でなぞった。
冷たい指が唇に触れたとたん、は大きく肩を震わせた。

冷たい指。
あの日の出来事が、使魔さんにされた行為が、思い出される。

怖い、肩が震える。
ここに恐怖の対象はいないと、頭ではわかっているのに、怯えを拭い去る事ができない。
唇に指が触れただけで、こんなにも震えてしまう自分が情けなくて、涙が出そうになる。
だが、ナイトと呼ばれるだけある強いプライドがそれを止めた。

が震えを止められないでいると、ネズミは動きを止め、そっと肩を抱いた。
「・・・悪かった」
ネズミは、こんな事をするつもりではなかったと後悔する。
本当に、看病してやるつもりだった。
なのに、クラバットを何とも嬉しそうな笑顔で撫でているを見たとたん、自分を抑えきれなくなっていた。
その笑顔に、駆り立てられていた。
笑うに笑えないこの町で、幸せそうに微笑んだの表情に。


「・・・ネズミ、もう、大丈夫だ」
は、なるべく平静を保ちながら言った。
風邪のほうは平気ではなかった、むしろ熱が上がった気がする。
だが、もう震えは止まっていた。

「もう平気だから、だから・・・」
もう帰ってくれと、そう言いたかった。
これ以上こうしていると、揺らいでしまいそうになる。
けれど、はっきりとそう言えなかった。
その言葉を発そうとしたとたん、声が急に小さくなり、掻き消えてしまう。
本心は、ネズミに、まだここにいてほしいと思っているのかもしれない。

「介抱してやるつもりだったのに、逆に悪化させたみたいだな」
ネズミは、の額に手を当てて熱を確かめた。
は、無言でネズミを見る。
心臓の鼓動は、まだ早いままだ。

この早い心音は、熱のせいだと思いたかった。
けれど、風邪をひいていなかったら平常でいられただろうかと思うと、自信がなかった。
現に、紫苑にも、ネズミにも揺らいでしまいそうになっている。
まだ自分の偽りを打ち明けていない今、心を動かされてはいけないとわかっているのに。


ふいに触れていた手が離れ、ネズミが立ち上がる。
その時、はネズミを引き留めようと、思わず手を伸ばしそうになった。
そんな事をしようとした自分に驚く。
意識はせずとも、ネズミを求めそうになった自分に。
幸いにも、ネズミはその様子に気付いていないようだった。

「苦しくなったらこいつに言え。そうしたらおれたちに伝わる」
ネズミは、いつの間にかベッドの上に戻ってきていた子ネズミを指差して言った。
「いいのか?僕の傍に置いていっても」
他人に大切な物を預けるということは、その人物を信頼している証だと言っても過言ではない。
の言葉には、本当に僕を信頼してもいいのかという忠告も含まれていた。

「あんたはこいつを傷付けはしない。それに、こいつはまだあんたの傍にいたいらしい」
子ネズミがの肩に乗り、小さく鳴いた。
ネズミの言葉通り、こんなにも無垢な生き物を傷付ける事などできない。
ネズミはそんなの性格がわかっているのか、自信ありげに言った。

「それなら、ありがたく借りることにするよ」
顔には出さなかったが、内心この子ネズミが自分のところにいてくれるのはとても嬉しかった。
こんなに小さな存在が、とても心強く感じられる。
それは、この子に頼めばいつでも紫苑やネズミを呼んできてくれるという、安心感があるからかもしれない。


「じゃあ、おれは帰るぜ」
「ああ。・・・またな」
子ネズミも、出て行く主人に別れの挨拶を言ったのか、チチッと鳴いた。
またな、なんて言葉、この町では容易に使えない言葉だ。
明日も、その相手が生きている保障なんてどこにもない。
けれど、彼に再び会いたいと、そう思いながら別れを告げていた。
本当に別れるのならば、僕の偽りを知ってから別れてほしかった。

紫苑、ネズミ、僕はこの二人に関わりすぎた。
だから、中々言い出せなかったけれど、もう、これ以上は黙っていられな。
い。
僕は確実に、二人に揺らぎそうになってしまっている。

風邪が治ったら、二人の家に行って、そして話そう。
昨日も今日も言えなかった、偽りを・・・。

は横になり、目を閉じる。
すぐ傍で、子ネズミも丸くなって眠った。
風邪をひいているはずなのに、不思議と寝苦しくはなかった。




―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
ムラムラしてやった、後悔はry。
またもやネズミのイメージ壊したらすいません!orz。
ネズミとは不思議とこういう話が書きやすい一方、逆に普通の、日常的なシーンが書きづらいという罠。