NO.6 #2


は、寂れた一室の部屋を訪れていた。
中はしんと静まり、まるで生活感の無い殺風景な部屋。
そこに、一人の男が立っていた。
虫一匹殺さないような人とは、こういう者のことを言うのだろう。
男の顔つきは端正で、この町に不釣り合いなほど穏やかだった。
しかし、それはとってつけたような表面上のもので、紫苑のような穏やかさとは遠くかけ離れていた。

「今日の相手は、この人だよ」
は、その男から標的の特徴や、呼び出した場所が書かれたメモを受け取る。
「それから、これが依頼金だ。君が失敗するなんて事、ないだろう」
はいつも依頼を果たす前から、報酬を受け取る。
それは、この男がの力を信じてやまないことを示していた。
「何も恐れる事はない。その人は運が悪かった、それだけの事なのだから」
「はい。使魔さん」

使魔さんは、この町で生きる術を教えてくれた人だ。
不吉そうな偽名には似合わないほど端正で、とても計算深い人。
今は依頼の仲介人と、執行者という関係になったが、今でも使魔さんが教えてくれた事をしっかりと覚えている。
最初に教わったのは、この町では人を信じるな、借りを作るな、心を許すなということだった。
その後に、使魔さん自身も信じるなと言われたので、その時は混乱してしまっていた。

そして、剣術を見込んでこの仕事を紹介してくれた。
人を傷付け報酬をもらう、真っ当ではないこの仕事を。
最初は、人を傷付け、血を浴びる仕事に疲れ塞ぎ込んでしまっているときがあった。
そのとき、使魔さんが手袋をくれた。

君の汚れた手で誰かに触れるのが怖いのなら、この手袋を付けるといい。
そうすれば、君は誰も汚さずに済むと、そう言ってくれた。
そんな物で、今までの汚れが消えるわけではなかった。
けれど、そうやって手を覆い隠すだけで、不思議と気が楽になったのは事実だった。
それから、この手袋だけは絶対に汚すまいと決心していた。


そして、今日も僕の手は汚れてしまった。
鉄の匂いが、赤い鮮血が、罪という名の重荷が、この両手にまとわりつく。
この手は誰も慰めることはできない。
この手が解放される時は、罪を犯す時だけ。
この手は、誰にも触れてはならない、大罪の証だった。




仕事が終わり、は数少ない知り合いの一人である、イヌカシの住む廃墟へ来ていた。
足は、自然と癒しを求めてここに向かっていた。
廃墟の中へ入ると、数匹の犬が出迎えてくれる。
犬は人間と違って、裏切らないし、嘘もつかない。
単純であるがゆえに、純粋で信頼できる。
だから、頻繁に犬と接する内に、イヌカシとは自然と顔見知りになっていた。

「やれやれ、また来たのかよ物好きさん」
数匹の犬を引き連れて、小柄な相手が姿を現す。
褐色の肌に長い髪、背丈はより数十センチ小さい。
「物好きで結構。今日も借りていくよ」
ほとんどの客は、犬を防寒用に借りていた。
だが、はその目的で犬を借りたことは一度もなかった。
物好きと言われるのは、当たり前だろう。
は銀貨を一枚、イヌカシに投げて渡す。
イヌカシは羽振りの良い客に、口元を綻ばせた。

「毎度あり。これなら、数匹連れてってもいいんだぜ?」
「いや、一匹でいい。そうだな、今日はお前が一緒に来てくれるか?」
は目の前にいた黒い犬に視線を合わして話しかける。
犬はそれに答えるように一声鳴き、の後をついて行った。
銀貨一枚は、犬を数匹借りるのに十分すぎる料金だった。

懐に余裕があるから多めに料金を払っているわけではない。
イヌカシの犬達には、銀貨に値するほどの安らぎを貰っている。
だから、普通の料金の数倍を払うのは犬に対する礼儀というものだ。
は人間よりも、安らぎを与えてくれるこの動物に数倍敬意を払うべきだと、そう思っていた。

は、廃墟から歩いて数分の所にある、小高い丘に来ていた。
今の時間帯に夕日は出ていないが、空には青空が広がっている。
空を見上げると、大きな雲がいくつかある中で、ところどころに千切れ雲が漂っていた。
あれはまるで切り捨てられた自分の様だと、少し詩的なことを考える。
合流できずに消えゆくあの雲のように、いつか同じ様に消えてしまうのだろう。

乾いた地面に腰を下ろし、隣に居る犬を撫でてやる。
犬は嬉しそうに黒い尻尾を左右に揺らした。
動物は、こういった素直な反応ができるところも好きだった。
人は、意地やプライドで感情を隠そうとする。
それは、自分も同じことで、だから余計に嫌になる。
表面上は良い顔をしていても、裏で何を考えているかわからない。

人は皆、内面に汚いところが必ずある。
それを隠し通そうとするところがまたいやらしくて嫌いだった。
それは、自分自身に対する嫌悪感でもあった。
もっと幼くて何も知らない頃は、そんな事は微塵も思わなかった。
優しい人は優しい、怖い人は怖いと信じて疑わなかった。

けれど、たった一つのきっかけで、自分はいつの間にかはとても疑い深い人間になっていた。
絶対だと思っていた物があっという間に崩れ去り、信頼していた物が、あっけなく消えて行った。
残った物は、猜疑心だけだった。

だけど、傍に居るこの犬は疑わなくてもいい、疑う余地も無い。
だから、僕はこの存在に安らぎを感じることができる。
この、無防備になって接することができる存在がいなければ、精神がまいってしまっていただろう。
何をするわけでもなく、じっと空を見上げる。
とても、静な時間が流れていく。
NO.6では、こんな静寂を味わうことはできなかった。



そうして物思いにふけっている時に、ふいに背後から声をかけられた。
聞き覚えのあるその声に振り向くと、そこには以前と同じく美しい髪をした紫苑が立っていた。
犬はぴんと耳を立て、紫苑のほうへ近づいて行く。

「やあ、おまえもここにいたのか。よしよし、明日洗ってやるからな」
犬は紫苑にかなり懐いているようで、嬉しそうに尻尾を振っている。
そして、犬は紫苑の袖をぐいぐいと引っ張り、の方へ来るように誘導した。
紫苑は警戒心の欠片も感じさせず、犬を挟んで隣に腰を下ろした。
こんなに無防備な少年が何か隠し持っているとは思えなかったが、用心にこしたことはない。
は、いつでも腰の刀を抜けるよう、腰元に手を添えていた。

「よくここが見つけられたな」
ここはネズミの家からふらふらと歩いていて見つけられるような場所ではない。それを発見されてしまったのは意外だった。
「ぼく、犬を洗う仕事をしによく来てるから、その時に犬が教えてくれたんだ」
人一倍、人間を嫌っていたイヌカシが、他人に犬を任せているのは意外だった。
けれど、犬の為を思って遊び相手を作ってやるのはいいと思ったのかもしれない。

「ここは、いい場所だね」
「ああ・・」
それにしても、紫苑は無防備だった。
紫苑は平然と犬を撫でたまま僕に話しかけてくる。
相手の腰にある刀に気付いていないとは思えないし。
もうこの町に来たばかりのお子様ではないのだから、いいかげん町の教訓がわかってきてもよさそうなものだ。
やはり、平穏無事に育ってきた紫苑にはそれが理解できないのかもしれない。

理解できなければ、受け入れられなければ死ぬ確率が高くなる。
その事をわかっていない、無防備な少年の髪が、赤く染まる日はそれほど遠くないだろう。
そうわかっていても、忠告することはない。
紫苑はただの、顔見知りにしかすぎないのだから。

紫苑が犬を撫でる手を止めると、犬はのほうに甘えてくる。
は、その犬を頭から背中にかけてゆっくりと撫でてやった。
「あ、
「何?」
「手袋、取って撫でてやったほうが喜ぶと思うよ」
は、じっと自分の手を見た。
紫苑も、その手をじっと見ている。
外せるわけがない、ましてや素手で犬を撫でるなんてできるはずもない。
撫でようとしたん、汚れきった両手は反射的に拒むだろう。
第六感の優れている犬なら、本能的に危険を感じ取るかもしれない。
そうしたら、もう犬はは近付きてくれなくなる。
自分がどんなに欲しても、触れることのできない存在となってしまう。

「ほら、撫でてほしがってるよ」
紫苑の言葉がわっているかのように、犬はを見上げている。
も、犬と視線を合わせる。
その無垢な目を見ていると、もしかしたら拒まれないかもしれないという浅はかな期待を抱いてしまう。
そんなはずはないと、わかっているのに。

葛藤していると、軽く手が引っ張られ、は犬から目を外し、紫苑のほうを見る。
痺れを切らしたのか、紫苑はの左手を取り、手袋を外そうとしていた。

「駄目だ!」
は、とっさに素早く手を引いた。
かなりの力が加わってしまったのか、手袋は手からすっぽ抜けて紫苑の手に収まった。

「あ・・・っ」
汚れた手が、露わになる。
罪を犯し続けている、汚れた手が。
すかさず、その手を後ろに隠す。
警戒心を忘れていなかったはずなのに、紫苑の行動に気付かなかった。
触れられる前に、払いのけることができなかった。
そんな自分にも、易々と自分の手を取った紫苑にも、は動揺を隠せなかった。

「どうしたの?」
何も知らない紫苑は、不思議そうな表情でを見る。
「・・・返してくれ」
「その前に、犬を撫でてやらないと。ふかふかで気持ちいいよ」
呑気な口調の紫苑に、はは少し苛立つ。
こっちはそれどころではない。

「いいから、返してくれ」
は、手袋をしているほうの手を差し出す。
頑なに言う理由がわからないまま、紫苑が手袋を返そうとする。
その時、庇うように後ろに隠していたの手を、犬が軽く舐めた。

「わあっ!」
手に柔らかななものを感じ、手袋を受け取らないまま、反射的にその場から飛び退いた。
紫苑も犬も、どうしたのだろうとを見上げている。
の表情には、あきらかな動揺が見てとれた。

は、露わになっている自分の手を見詰める。
そこにいる紫苑と犬の存在が目に入っていないかのように、じっと注視していた。

舐められた、この汚れた手を、純粋無垢なこの犬に。
あってはならない、そんな事。
触れてはいけない、汚れの無い、こんなに純粋な生き物が。

?」
紫苑の呼びかけに、はゆっくりと視線を戻す。
そして、犬と紫苑に交互に視線をやった後、足早にその場を後にした。

「あ、手袋・・」
紫苑は、自分の手に残った手袋に視線を落とした。
は一見、冷静沈着な、そういうタイプの人間に見えた。
それが、手袋を取られただけであんなに動揺するものなのだろうかと疑問に思う。
それとも、素手で犬に触れない体質なのだろうか。

犬に手を舐められた時の驚きようには、紫苑も驚いていた。
冷静な表情が一瞬にして崩れ、本来の表情が出ていた気がした。
まるで何かに怯えているような、そんな表情だった。
紫苑にとって、はまだ単なる知り合い程度のものでしかない。
けれど、はなぜあんなにも動揺したのか、なぜ執拗に手袋にこだわったのだろうかと気になり始める。
紫苑もまた、に興味を抱き始めていた。




足早に辿る帰路の途中、は見慣れた人間に出くわした。
「よお」
ここはまだ人通りのある場所。
そこで会う事は偶然には違いなかったが、相手ははまるでが来ることを待ち構えていたかのようだった。

「ネズミか・・じゃあな」
はネズミを一瞥すると、そのまま立ち去ろうとする。
手袋が無い今、一刻も早く家へへ帰りたかった。

「折角会ったっていうのに冷たいねえ。・・・あんた、手袋はどうした」
の歩みが、ぴたりと止まる。
そして、振り返ってネズミを睨んだ。
「君のところの問題児に取られたんだよ。素手で犬を撫でてみろってね」
きつい眼光が向けられたが、ネズミはものともしない。

「それはそれは大変失礼をしました、よく言ってきかせておきます」
ネズミは、まるで子供の失態を謝る親のように言う。
その口調には、わざとらしさがあふれていた。



ネズミは内心、紫苑がの手袋を取ったことなんて珍しい冗談かと思っていた。
いつも警戒心を忘れないが、ただの少年に手を取られ、ましてや手袋を取られてしまうなんて信じ難いことだった。
自分でも、滅多に触れることのできないその存在に、紫苑は易々と触れたのかと。
そう思った時、ネズミは自分の中に何かが湧き上がるのを感じていた。


「だから、僕は早く帰りたいんだ。じゃあな」
そう言い捨て、去っていくの背を見送ると、ネズミもその場を去った。




は家に着いて早々、溜息を吐いた。
手袋を返してもらい損ねたことと、それを取られてしまった自分のふがいなさに対して。
よりによって、日常生活でよく使う右手の手袋を取られてしまった。
仕事の時は外すからいいものの、これでは人通りの多い所へは行けず、買い物もできない。
明日、どうしても返してもらわなければならない。

犬洗いの仕事をしているなら、イヌカシの所へ行けば会えるだろう。
そして、その時自分のしたことを伝えればいい。
そうすればとたんに恐怖し、関わる事はなくなるだろう。
美しい髪を持つ少年に、汚れた人間は似合わない。
もう髪が見られなくなるのは残念だけれど、こんな存在は近くにいないほうが美しさを増すことだろう。
紫苑は、ネズミの傍に居るのが一番いいと、はそう思うようにしていた。


―後書きー
またまた読んでいただきありがとうござました!。
まだほとんど触れあうシーンが出てこなくて、じれったくてモヤモヤ感があるかもしれません。
第三者の視点、主人公の視点、ネズミや紫苑の視点の書きわけがむずかしすぎ・・る・・・。