NO.6 #3


右手の手袋を失った翌日、は昨日と同じくイヌカシの居る廃墟を訪れていた。
もう昼過ぎということもあって、そこではすでに紫苑が犬洗いの仕事を始めていた。
犬達は順番待ちをするように紫苑の周りに集まり、洗われている犬はなんとも気持ちよさそうな表情をしていた。
紫苑は紫苑でその仕事を楽しんでいるようで、笑顔を浮かべながら泡まみれの犬に水をかけていた。
すると、犬は傍に紫苑がいるにもかかわら体を震わせ、水を弾き飛ばした。

「うわっ、もう、やめろよ」
そう言ってはいるものの、紫苑は微笑んでいた。
一匹洗い終わると、すぐに次の犬がせかすように紫苑の前に座る。
紫苑は、楽しそうに次々と犬を洗っていった。
視線に気付く様子がないので、は紫苑に近付いた。


「あ、、こんにちは」
紫苑は手を動かしながら、に笑顔を向けた。
「紫苑、手袋を返してくれないか」
紫苑に笑顔を返すこともなく、挨拶もしないまま率直に要件だけを告げる。

「うん、ぼくも返そうと思ってたんだ。けど、今こんな状態だから、しばらく待っててくれないか?」
泡だらけの手を見せながら、紫苑は苦笑した。
確かに、そんな手で手袋を渡されても困る。
そして、紫苑の仕事を止めているに、犬の視線が集中していた。

「・・・昨日の場所で待ってるよ」
犬の視線に気圧され、はその場を去る。
話をするにも、人気がなくて丁度良い場所だろう。




紫苑がやってきたのは、それから結構な時間が経ってからだった。
もうすぐ太陽は夕日に色を変えるだろう。
「ごめん、遅くなって。はい、手袋」
また、紫音は当たり前のように隣に座る。
は差し出しされた手袋をさっと取り、すぐに左手に付けた。
そうすると、安心感が戻ってくるのを感じた。

「紫苑、僕の事で、君に教えておきたい事がある」
「きみのこと?それならちょうど、ぼくも知りたかったんだ」
それを知って後悔し、恐怖を覚えることになっても?と、は心の中で呟く。
「僕の仕事の事だよ。ついでに、手袋をしている事も」
それを聞くと、紫苑は興味深そうにを見つめた。
は、なぜかその目を直視することができずに、正面を向いて言った。


「僕は、No. 6で人を殺したてきたんだ」
「えっ」
紫苑の驚きの言葉は、No. 6か、殺人かどちらの言葉に対するものだろうか。
一瞬そんな疑問が脳裏をよぎったが、ほぼ間違いなく後者に対してだろうと思い直した。

「この町では、今も人を傷付ける仕事をしている。もうわかるだろう、僕の両手はたくさんの血で汚れているんだ。
だから、僕が犬に、純粋無垢な存在に触れるのは許されないことなんだ」
は、独り言のように、淡々と言った。
人殺しの罪、人を傷付けている罪、幾重の罪が重なるこの両手。
触れられない、触れたくない、美しい物を汚したくない。
もし触れたとしても、血が付くわけではない。
けれど、表面上では見えない汚れが付く、自分自身にしか見えない汚れが。
美しい物を人一倍感慨深くとらえるにとって、自分の手で清廉な物を汚してしまうのは許せないことだった。


「君は、優しい人なんだね」
「は?」
予想していなかった言葉に、すっとんきょうな声を出して聞き返してしまう。
これだけの事を言ったのだから、紫苑はすぐにでも恐怖を感じて逃げ出してもいいはずだ。
けれど、紫苑の雰囲気は何も変わりがない。
しかも、優しいなどとたわけたことを言った紫音を、は訝しげに見た。

「聞いてなかったわけじゃないよな、僕は殺人者なんだ。優しいだなんて、お門違いの言葉だ」
「だって、君は犬の事を思ってくれている。汚したくないって。そして、人の事も」
汚したくないから触れない、そういった思いがあるのなら、それは犬を思いやっていることに変わりないと紫苑は思っていた。
人に対しても、は素手で触れることを嫌った。
それは、他者の事をちゃんと考えている証拠に感じられた。

「犬は好きだよ。だけど、人は好きじゃない。。
確かに犬は汚したくないって思ってるけど、元々、人は汚い生き物なんだから配慮なんていらない」
その事は、No. 6に居た時から、ずっと思い知らされてきたことだった。
生まれた時から、今の今まで、ずっと。

「じゃあ、どうしてずっと手袋を?」
少しの間があった後、はためらいがちに答えた。
「・・・怖いんだ」
「怖い?」
「僕が触れると、人は僕を嫌悪する。汚い、汚れるって・・・。
でも、これを付けていれば、触れてもいいって・・・そう思えるんだ」
いけない、こんな事、自分の弱みを知られてしまうような事を話しては駄目だ。
教えてしまえば弱みに付け込まれる、弱点をさらけ出してしまうことになる。
紫苑がネズミに教えてしまうかもしれないし、そうでなくともこれは自殺行為だ。
そうわかっているはずなのになぜ、口は動く事を止めないのだろう。

「蔑みや恐怖の籠った目で人は僕を見るんだ。表面上はにこにこしてる奴だって、本当は嫌悪してるに決まってる。。
殺人者に相応しい反応だとわかっていても、僕はそれを恐れずにはいられなかった」
人間なんて、すぐに裏切る。
自分の為とあらば、掌を返すように簡単に。
人間なんてすぐ嘘をつく。
世間体をよくするために、真顔で数え切れない程の嘘を堂々と言う。
紫苑、君もそうなんだろう、なぜなら君は人間なんだから。
信じてはいけない、気を許してはいけない、裏切られた時に辛くなるだけだ。


・・・」
名を呼ばれて、は紫音をちらと見る。
意外なことに、その瞳には、予想していた蔑みも、嫌悪も含まれていなかった。

紫苑はの話を聞いても、動じる様子はなかった。
嫌悪することも、恐怖することもなく、感じていたものは庇護欲だけだった。
この、誰も信じる事のできなくなった相手が、無性に悲し気に見えた。


夕日が、辺りを照らし始める。
は、これ以上ここに居続けると、どんどんぼろが出てしまいそうな気がして、そこから立ち去ろうとした。
夕日が見れない事は惜しかったが、これ以上詳しく話してしまうわけにはいかない。

「もう帰るよ。仕事の準備があるから」
嘘だ、今日は仕事は無い。
ただ、この場から逃れる口実が欲しかった。
「ちょ、ちょっと待って」
急に立ち去ろうとするを、紫苑は慌てて腕を取って引き止める。
はすぐに腕を払い、構うなと言いたげにきつい眼差しで紫苑を睨んだ。
だが、その眼差しはすぐにかき消えた。
夕日が、紫苑の髪を照らしていた。

は、紫苑を見た瞬間、何も言えなくなった。
ただでさえ美しいその髪が、橙色の光を受けてきらびやかに輝いている。
こんなに美しく、幻想的なものが今までにあっただろうか。
犬の瞳も、夕日の光も、今の紫苑の髪にはかなわない。
見惚れている。
それは、嫌悪してやまないはずの、人間という生き物だというのに。

「また、涙が」
「え?」
ふいに紫音の指がの頬に触れ、いつの間にか流れ落ちていた涙を拭う。
紫苑を見て涙するのは、これで二度目だった。
美しいものに感動しているとはいえ、人前で二回も涙を流してしまうなんて、信じられなかった。

「ぼくは、怖くないよ」
紫苑は真っ直ぐにを見て、言った。
殺人を犯した、という言葉が聞こえなかったわけではない。
けれど、こうして涙するを見ていると、残酷な印象がどうしても見えてこない。
汚れていて、人から嫌悪されているなんて、紫音はとても思えなかった。

は、ぼくのことが怖い?」
「それは・・・」
は言葉を詰まらせる。
相手がこんなに美しい髪を持つ少年でなければ、すぐさま「怖い」と、そう言っていただろう。
けれど、紫苑の目には蔑みや恐怖は一切感じられない。
汚れの対象がこんなに近くにいても、頬に触れても、ずっと優しげな眼差しを向けている。

は、その目を見続けることができなかった。
どんな顔でその目を見ればいいのか、わからない。
誰かが負の感情意外の視線を向けるなんて、思いもよらない事だったから。
目を逸らしていると、いつの間にか手袋が両方とも外されていた。
は慌てて手を引こうとしたが、それよりも早く、紫苑は両手を握っていた。

「っ!紫苑、離してくれ!」
振りほどこうと力を込めて手を引いてみるが、紫苑は手を離さなかった。
むしろ、振りほどかれまいと力が込められる。
紫音の手は、とても温かかった。
油断すると、数年振りに感じるその温もりにほだされてしまいそうになった。

「紫苑、頼むから、離してくれ・・・」
は、まるで懇願するように、消え入りそうな声で言った。
汚してしまう、この美しい相手を。
許されない、いや、身勝手な美意識が許さないと言っている。

「ぼくはきみのことを恐れない。だから、きみもぼくのことを怖がらないでほしい」
優しげな口調に、は恐る恐る視線を紫苑のほうに戻す。
とても穏やかで、今まで向けられたことのない眼差しと向き合うと、目の奥が熱くなる。
泣き出しそうになっているのだと、はっきりとわかった。
これ以上弱みを見せてはいけない、この町では強く生きると決めたのだから。

再び手を強く引くと、今度はすんなりと離された。
はひったくるように手袋を取り、両手にはめる。
そして、すぐさま帰ろうと、きびすを返した。


歩き出そうとした時、声をかけられ立ち止まる。
「ぼくはもっと、君のことが知りたい」
それは、相手の事を知って、弱みを握ろうという計算的なものではなかった。
ただ純粋に、相手の事を知りたいという気持ちがその言葉を発させた。

「・・・・・・好きに、すればいい」
は振り返らずに言い捨て、その場を後にした。




―後書きー。
読んでいただいてありがとうござました!。
ここから結構紫苑の気持ちの描写が入ってくるので、ややこしくないか不安。
ここにネズミが入ったらどれだけややこしくなることやら(汗)。

そして、たまに付いているタイトルを考えるのに一番悩むこのごろ・・・。
さらに、終わり方もまだ決まってないのでどこまで連載続けようかと悩むこのごろ。
少しややこしくなってきたんで、わからないとこあったら指摘してやってくだされ。