No. 6 #5


紫苑を家に泊めた翌日、手袋を返してもらえたので、は露店に買い物に来ていた。
鮮度の悪いものを掴まされることがあるので、その目は真剣そのものだ。
状態の良い林檎と鶏肉があったのでそれらを買い、帰ろうとする。
その時、人込みの中に見覚えのある姿が見えた。

声をかける用事も無かったので、人込みを抜けてさっさと帰ろうとした。
だが、あきらかに自分に近づいてくる足音があった。
関わる理由もなければ特別避ける理由もなかったので、はそのまま一定の歩調で歩き続けた。
すると、案の定、隣に並んだその人物から声がかけられた。

「よお。昨日はうちの問題児が世話になったみたいだな」
「まあ、な・・・全く、勝手についてきて、しかも不法侵入までするなんて。。
どういう教育をしているのか知りたいもんだよ」
それは全て自分の油断のせいだったが、ネズミに対してはどうしてもいやみったらしい事を言ってしまう。
逆に、紫苑に対してはこういった事を言おうとしても言えないから不思議だった。

「埃がすごかっただの、スープがうまかっただの、えらく嬉しそうに話してたぜ」
「それはどうも」
は興味がなさそうに、単調な生返事を返した。
「あと、寝顔がすごく可愛かったって言ってたな。おれも高貴なナイトの寝顔を拝ませてもらいたいもんだ」
「ふ、ふざけるな、誰が見せるか!」
からかわれて、つい叫んでしまう。
その言葉を発端に、昨日の事が脳裏に浮かび上がった。


目が覚めると、すぐ目の前に紫苑の顔があった。
それだけならば、偶然にも向かい合わせになるように寝返りをうってしまったと思い、驚く事はなかっただろう。
けれど、紫苑の腕が自分にまわされていたとなれば話は別だった。
それは、偶然ではなく、意図的に、紫苑に抱き寄せられたということになる。
そう気付いたは、つい強い口調になり、紫苑を追い出してしまっていた。

紫苑といい、ネズミといい、この二人はことごとくペースを崩される。
そのことはさほど不快には思わないのだけれど、好ましくとも思わない。
そんな曖昧な気持ちに、時々悩ませられる。
特に、紫苑に会ってからは悩みが多くなった。
自問自答して、自分の矛盾に気付いてもどうにもできない時がよくあった。
なぜどうにもできないのか、それもまた頭を悩ませることだった。

が完全に自分の世界に入って考え事をしながら歩いていると、ドサッと何かが倒れる音がした。
その音に、振り返って後ろを見た。


「・・・ネズミ?」
そこには、ネズミがうつ伏せに倒れていた。
まさか、石にでもけつまづいたのだろうか。
「何やってるんだ。早く・・・」
そこで、ただつまづいたにしては様子がおかしいことに気付く。
近付いてみると、ネズミの息がとても荒くなっていた。

「歌が・・・」
荒々しい息の合間に、ぽつりとネズミが呟く。
「歌が・・・聞こえる」
そう言われて耳を澄ますが、聞こえるのは足音や会話ばかりで、歌など聞こえない。
明らかにおかしい様子に、嫌な予感が脳裏をよぎる。

「とにかく、こんな所に倒れてたら邪魔だから家に連れて行くよ。いいか?」
「・・・ああ」
ネズミの返事は、とても弱弱しかった。
は破棄のなさに戸惑ったが、すぐに肩を貸し、半ば引き摺るようにしてネズミの家に向かった。
そして、これはネズミに大きな貸しを作るいい機会になると考えていた。




家に着くと、すぐにネズミを下ろし、ベッドに寝かせる。
運んでいる時からずっとネズミの息は荒く、うなされるように時々うめいていた。
こんな時に限って紫苑は犬洗いの仕事に行っているのか、家いるのは三匹の子ネズミだけだった。
子ネズミは、ベッドの縁から心配そうにネズミを見下ろしている。

「大丈夫だ、お前達の御主人様は僕が助けてやる」
大きな貸しを作るためにねと、口に出さずに呟く。
言葉を理解できているのか、子ネズミ達はキチッキチッと鳴いた。
助けられなかったら容赦しないぞと言っているのかもしれない。
は子ネズミを安心させるよう、耳の裏を掻いてやった。

そうは言ったものの、こんな時はどうすればいいのか見当がつかない。
風邪といったごく一般的な病気の対処法ならわかるが。
急に倒れて歌が聞こえて苦しみ始める、なんて症状は聞いたことがなかった。

「み・・・ずを・・・」
「水?水が欲しいのか。わかった、すぐ汲んでくる」
は木の器を取り、外へ駈け出そうとした。
そして、扉に手をかけようとした時、ひとりでに開いたのでとっさに飛び退いた。

「あれ、。こんにちは」
鉢合わせになった紫苑が呑気に挨拶をする。
だが、今は返事を返している暇はない。
「紫苑、ネズミが倒れた。急いでこれに水を汲んできてくれ」
木の器を手渡したとたん、紫苑ははっとした表情になり、走って行った。
水汲みを紫苑に任せたは、ネズミの元へ戻った。




がネズミの元へ戻った時、荒い息は治まっていた。
もう大丈夫なのかと傍に寄ってみたが、それは思い間違いだった。
ネズミの呼吸はさっきとは打って変わって、とてもか細いものになっている。

「・・・ネズミ」
呼びかけても、何の反応も無い。
一見、安定しているように見えるが、息が荒い時より今の状況の方が危なっかしく見える。
その時、嫌な感じが体を走った。
初めてではない、この嫌な何かには不安を覚えずにはいられなかった。

「ネズミ!」
紫苑が、部屋へ駈け込んで来る。
手に持つ器には水が入っていて、紫苑が走るので今にも零れそうになっていた。
「ネズミ、聞こえるか。ほら、水だ」
ネズミは、紫苑の呼びかけにも反応を示さない。
紫苑はネズミの口元に器を当て、水を飲ませようとする。
しかし、ネズミは口を開かず、水は零れていくばかりだった。

「ネズミ、帰ってきてくれ・・・」
紫苑のその言葉は、死地に陥っている者を呼び戻したいという懇願が籠っていた。
このままだと、ネズミは死ぬというのか。
こんなにも突然に、こんなにもあっけなく。
さっきまで会話をし、相手をからかっていたのは、他ならぬこの少年だったというのに。

痛い。
さっき感じた嫌な何かが、体を痛めつけている。
圧迫感に襲われる。
苦しんでいるのはネズミなのに、この息苦しさは一体何なんだ。


「ネズミ・・・」
紫苑は呼びかけながら、ネズミの手を強く握った。
その表情には、昨日までの穏やかな様子からは考えられないほどの不安感に満ちていた。
そんな紫苑を見ていると、さらに強い圧迫感がを襲った。
嫌だ、思い出してしまう、もうこの息苦しさは感じることがないと思っていたのに。
この苦しみから逃れるにはどうしたらいい、この痛みを振り払うにはどうしたらいい。

脳裏に、言葉が響く 。
救え、目の前に居る者を、早く、助けるんだと。
その言葉は自分自身のものには違いなかったが、他の誰かが助言をしているようにも聞こえた。

また、声が響く 。
迷うな、急げ、お前が美しいと思った少年を、お前のように絶望の淵に立たせることになってもいいのか。
横たわる少年を、こんなにもあっけなく死なせて良いのか。

良いはずが、ない。
二度目の声が聞こえた時、は紫苑が持っている器をひったくり、その水を自らの口に含んだ。
もう、迷っている暇は無かった。
は、覆い被さるようにして、ネズミに口付けていた。

余計な事なんて考えず、水を飲ませることだけに集中する。
紫苑のように手を握ってやることも、気の利いた言葉をかけてやることもできない。
できることは、これしかなかった。
慎重にネズミの唇を割り、少しずつ水を流し込んでいく。
飲み切れていない水が、唇の端からわずかに流れ出るのがわかる。
その間、は何かを考える事も無く、ただネズミに水を与えていた。



紫苑は今の状況を見て、目を丸くして驚いていた。
急に器を取られたかと思うと、あっという間にがネズミに口付けていた。
そして今、口移しでネズミに水を与えてくれている。
は以前、ネズミのことを単なる顔見知りだと言っていた。
それ以上でも、それ以下でもないと。
それならば、今のこの状況はどう説明するつもりなのだろう。

は、本当にネズミのことを知り合い程度にしか思っていないのか。
本当は、ネズミはかけがえのない友と、そう言える関係ではないのか。
紫音は、さっきまでネズミの事が心配で仕方無くて、そのことしか考えられなかったのに。
今はこの二人の関係の事を考えてしまっていた。
そして、そんなの予想が当たっていて、この二人が友と呼び合える存在だったらいいのにと、そんなことを思っていた。


口付けのさなか、ネズミの喉が、わずかに動いた 。
目が覚めるほど冷たい水が、体の中に入って来る。
もうこのまま眠りたいのに、その冷たさが引き止めるように流れ込んでくる。
その冷たさと同時に感じる、この温かさは何なのか。

何だったか、以前にも、一度だけ感じたことのあるこの温もりは。
それは眠りを誘いそうなものだが、逆に連れ戻そうとしている。

(ネズミ!)

聞き覚えのある声が聞こえる。
まるで、目覚まし時計のようだ。
わかった、わかった、起きるよ、起きればいいんだろう。




口内の水がなくなると、はすぐにネズミから離れた。
それの様子は、馴れ合いで口付けていたわけではなく、あくまで水を与えるためだということを示したがっているようにだった。

「ネズミ」
が、静かな声で呼びかける。
紫苑は、ネズミの手をより強く握りしめた。
帰って来てくれと、紫苑は強く願う。
子ネズミ達も、紫苑も、も、ネズミをじっと見る。
そうして少しの間があった後、ネズミがわずかに身じろいだ。

「ネズミ!」
紫苑が歓喜にも近い声でネ呼びかけ、顔を覗き込んだ。
ネズミはその声に起こされたかのように、ゆっくりと目を開けた。
その場にいた全員が、安堵する。


、君のおかげだ。本当に、ありがとう」
紫苑はに向き直り、一言一句はっきりと言った。
その瞳には涙が溜まり、今にも溢れ出しそうになっていた。

「・・・誤解してるみたいだから言うけど、僕はネズミに大きな貸しを作るいい機会だと思っただけだ。。
それ以外の意図は、何も無い」
ネズミは紫苑以外の声がすることに気付き、体を起こしてを見た。
もネズミのほうを見たが、一瞬目が合ったかと思うと急に立ち上がり、部屋から出て行った。
ネズミは、が出て行った後を、しばらくじっと見続けていた。




はネズミの目を、ネズミ自身を直視することができなかった。
頭ではさっきの行為を貸しを作る為の行為だとわかっていても、ネズミを見た瞬間、反射的に立ち上がり、部屋から出てしまっていた。
自分が、思ってもいない行動をしてしまう。
自分の中にもう一人の自分がいるのではないかと、ありえないことを思ってしまうくらい反射的な行動だった。

けれど、ありえなくはないのかもしれない。
苦しんでいるネズミを目の当たりにした時、頭のどこかで意識してもいないのに声が聞こえた気がした。
余計な事は考えずに、とにかく助けろと。

二人に出会ってから、どこか変わってきている。
自分の中の何かが、崩壊しようとしている。
もしかしたら、今までに気付かなかったことに気付こうとしているのかもしれない。
それに気付いてしまってもいいのだろうかと、は迷っていた。




―後書き―
ちょっと半端な終わり方ですいません。
そして、読んでいただきありがとうございました!
またまた急展開。そして紫苑、ネズミ、、第三者(作者)の視点が入り混じっているのでわかりづらくないかまたもや心配。