信頼関係、後編


二人は再び、イヌカシのもとを訪れていた
イヌカシは探すまでもなく、自から二人に駆け寄った

「紫苑!仕事ほっぽり出して何してたんだ?今日はタダ働きを覚悟しておけよ」
イヌカシは、紫苑の前に立つなり不機嫌そうな声で言った
流星はというと、まるでイヌカシに怯えるかのように一歩身を引いていた

自分の真実を知っている相手に合うときの緊張感
それが、流星をこの場から立ち去らせようとする
紫苑はそれを察したのか、引き止めるように流星の腕を掴んだ
イヌカシも流星の雰囲気が違うことを察したのか、言葉を止めていた

「イヌカシ、正直に答えてほしい。きみは、流星のことをどう思ってる?」
少し間違えれば、相手を意識しているかどうか尋ねるような、そんな台詞に聞こえる
けれど、流星にはとても重々しい言葉に聞こえて仕方がなかった
答えを聞かなくてもいいから、今すぐ走り去りたい衝動にかられる
流星はその衝動を押さえつけ、踏みとどまっていた

「どう思ってるって、流星はお得意さんだけど?」
イヌカシは紫苑の質問の意味がよくわからず、平坦とした口調で答えた
流星にとっては、もうその言葉だけで十分だった
だから、あのことを紫苑が言う前に立ち去りたかった


情けない
イヌカシも信じようと思っているのに、こうして逃げたがっている自分が
けれど、もし昔と同じように、あのことをからかうような風に言われたら
もう二度と、ここへ犬を借りに来ることはできない
流星はイヌカシと視線を合わせることができず、揺れる犬の尻尾を見ていた


「ぼくは、きみに流星のことを言った。流星に、きみを信頼してほしかったから」
「ああ、そのことか」
流星は、身を強張らせた
おそらく、次に発される言葉でイヌカシが流星をどう思っているか明確になる
イヌカシのいたって平坦な口調の一言一句が、重く感じられる
そして、イヌカシが口を開いた

「そんなどうでもいいこと、よくおれに教えられたもんだな。さあ紫苑、とっとと仕事に戻れ」
イヌカシのその言葉に、流星は視線を上げた
どうでもいいと、イヌカシはそう言った
随分とぶっきらぼうな言葉だが、その瞬間流星が感じていた重圧は消え去っていた


「本当に・・・それだけなのか?イヌカシ、僕に思うことは、本当に・・・」
流星は、思わず尋ねていた
毒を含んだ厭味の一つや二つ飛んできてもおかしくないと、薄々思っていた

「あんたの体のことなんか気にしたって、何も得するわけじゃない。
それとも何、おれに興味持ってほしいわけ」
イヌカシは、最後の方だけからかうような口調で言った
流星は、イヌカシと視線を合わせていた
この体を、蔑みの対象として見ない存在が、ここにもいた
息の通りが、すっとよくなる気がした


「いや・・・いいんだ。気にしなくたって、興味を持たなくたって、それでいいんだ」
誰かの気に留められないというのは、時にいいことだった

NO.6に居た頃は、物珍しげそうな好奇心の目にさらされてきた
でも、ここではそんな視線は感じない
何でそうなったんだと、いちいち聞いてくる者もいない
そのことを知ったイヌカシでさえも
劣悪な環境のはずのこの街で、安心して話せる存在がまた一人増えた
それに喜びを感じている自分が、確かにここにいた

「おまえさん、何か変だな。紫苑に骨抜きにでもされたのか?」
「ああ・・・そうだな。どうやら、そうみたいだ」
流星は、イヌカシと知り合った当初は誰にも隙を見せない、油断ならない雰囲気を纏っていた
けれど今は、相手を信用し、言葉を交わしている
まるで紫苑が纏っているような、穏やかな空気の中で

当初の自分を思い返すと、今との違いがおかしくて流星はふっと笑みを浮かべた
流星のそんな笑みを初めて見たのか、イヌカシは目を丸くしていた

「まあいいさ。ほら紫苑、行くぞ」
犬洗いの続きをさせるのか、イヌカシは紫苑の腕を引っ張った

「あ、うん。ごめん、仕事ほっぽり出しちゃって」
紫苑は謝りつつ、イヌカシの引っ張られていった
その途中で紫苑は振り返り、流星に嬉しそうな笑みを向けた
流星は、たぶん自分がイヌカシも信用したから、紫苑は喜んでいるのだろうと思った

他人のことで喜べるなんて、お気楽な性格だと思う
だけど、その喜びを含んだ笑みは、とても優しい
イヌカシの言うとおり、僕は骨抜きにされている
いつの間にか、僕はずいぶんと穏やかになっている
紫苑という存在が、傍にいてくれたから
だからこうして、また一人安心できる存在を増やせた
僕はそれが、嬉しかった

「ありがとう」

ふいに、二人の背中にかすかな声がかけられた
それは無意識の内に漏れた、流星の呟きだった

「ん、何か言ったか?」
その小さな声に、イヌカシが振り返り尋ねた

「何でもない。じゃあ、またな」
お互いは背を向けて、離れて行った
冷たい一陣の風が吹いたが、それほど冷たさを感じなかった
自分の気持ちが温かいからかな、なんて紫苑のようなことを流星は思っていた




―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
NO.6の#8を読んだら無性に何か書きたくなって、衝動のままにハイペースで書き上げました
しばらくは、NO.6の更新が増えそうです