NO.6 番外紫苑編1
(連載時の設定は生かされていても、話がつながっていない場合がありますのでご注意を)


が目を覚ましたのは、昼過ぎだった。
昨日は冷え込みが激しく、中々寝付けなかったのが原因だ。
毛布は山ほどあるのだから部屋から取ってくればいいのだけれど。
あの山の中から毛布を引きずり出して、外で埃を払うといったことが面倒で、結局放置してしまった。
昨夜は結構な寒さだったが、今や外は晴れ晴れとしていて家の中より暖かそうに見える。
は久し振りに犬と一緒にのんびりしようかと思い、イヌカシの元へ向かった。


外は、やはり冷たい壁で囲まれた家より暖かかった。
それでも、いくら晴れ晴れとしているといっても冬なので、全く寒くないということはない。
そしてそんな中、冷たい川で犬を洗っている少年がいた。
その少年は軽く手を振って微笑みかけてきたので、警戒心もなく近付いて行く。

「紫苑、この寒い中よくやるな」
は言葉に感心と呆れを含ませて、犬を洗っている少年に言う。
「いくら寒くても洗ってやらないと。このごろは早く洗ってくれって、急かすようになってきたんだ」
紫苑は、話しながらも冷たい水で犬を洗い続けていた。
犬を洗う事に関しては、イヌカシより紫苑のほうが上なんじゃないかと思う。
それぐらい犬はおとなしく紫苑に身を預けているし、何より紫苑は本当に楽しそうに洗っていて。
まるで、水の冷たさなんて感じていないかのようだった。

もやってみる?折角、手袋が取れたんだし」
そう、紫苑とネズミに受け入れられてから、もう手袋はつけていなかった。
いつもより空気が冷たく感じていたても、再びつけようとは思わない。
いくら手袋が取れて、素手で犬を触れるようになったとはいえ。
冷たい水を使って犬洗いができるほど、は寒さに強いわけではなかった。

「いや、僕はいい。その犬は君に洗ってもらいたそうにしてるから。
じゃあ、僕は犬を借りに行くから、またな」
はきびすを返して、そこから少し先にある古い建物の中へ入った。


建物の中に入ったとたん、匂いを察知したのか奥のほうから数匹の犬がに駆け寄る。
久々に来たのでもう忘れられているかと思ったが、覚えていてくれたようで正直嬉しかった。
「雰囲気が違ったから誰かと思ったが、何だ、いつもの物好きさんか」
犬達に遅れて、イヌカシが姿を現す。

「雰囲気が違う?僕の?」
「他に誰がいるんだよ。何か、いつものピリピリとした様子がなくなった」
「そう・・・なのか」
そんな事、自分の事なのに自分では全く気付いていなかった。
以前の僕はどこへ行くにしても警戒心を忘れることなく、緊張状態にあった。
けれど、今は以前ほど周囲を警戒しなくなったように思える。
僕はあの二人と関わる事で、自分でも気付かない内に穏やかになっていったのか・・・。


「そういえば、手袋もしてないみたいだな」
「ああ・・・もう、必要なくなったんだ」
そう答えると、イヌカシは呆けた表情を見せた。
冬になってからわざわざ手袋を外す相手は、さぞかし奇妙に見えたのだろう。

「まあいいさ。それで、今日はどいつを借りて行くんだ?」
「そうだな・・・今日は寒いし、こいつにするよ」
は目の前にいた白くてふさふさした犬の頭を一撫ですると、イヌカシに銀貨を投げ渡す。
そして、その犬と一緒にいつも行く場所へ向かった。


目的地に到着したはその場に座ると、すぐに傍にいる犬を撫でまわした。
ふわふわとした感触が心地良くて、もっと触れたいと思ってたまらなくなる。
素手で犬を触るのは初めてだったので、子供のように何度も犬を撫でた。
ふさふさとした冬の犬の毛は、紫苑が洗ってくれているおかげか、とても触り心地がいい。
思わず抱きつきたくなるぐらいだったが、冷え切った服と密着したら犬が嫌がると思いやめておく。

こういう事を考えるところが、自分は本当に動物が好きなんだと改めて思う。
今までずっと手袋をしていたので、こんな感触知るよしもなくて。
こうして気兼ねなく動物に触れられる事に、幸福感を覚えていた。
犬も撫でられるのが嬉しいのか、ぱたぱたと尻尾を振っている。



ふいに背後から紫苑の声がして、犬を撫でる手を止める。
「ああ、終わったのか。お疲れ様」
「うん。やっぱり、結構寒いや」
紫苑は、の隣に腰を下ろした。
膝を抱え込む格好で座っている彼の指先は、よほど冷えているのか赤くなっている。
あんなに冷たい川でひたすら犬を洗っていたのだから、こうならないほうがおかしい。

「・・・かなり冷えてるみたいだな。ほら、犬にあっためてもらったほうがいい」
「そうだね。あ、でも、ぼくの手はかなり冷たいから犬が驚くんじゃないかな」
その言葉を聞いて、は笑いそうになった。
自分と同じく、犬のほうを優先的に気遣う人物がこんなにも簡単に現れて。

「君はいつも寒い思いをしながら洗ってあげてるんだから、少しくらいなら罰はあたらないさ」
はそう言って紫苑の手首を掴み、その手を犬の頭へと誘導した。
服で隠れているはずの手首まで、冷たい。

紫苑は犬の頭に手を乗せると、優しく撫で始めた。
その毛並みと体温が心地良いのか、目を細めて犬に微笑みかけている。
紫苑のように動物に語りかけたり、微笑みかけたりするのは一見おかしな行為だと思われる。
けれど、僕は彼のそんなところに好感を持っていた。
ただの天然だとも思われる行為だが、彼は純粋に優しい少年なのだと、そう思える。

紫苑はしばらく毛の中に手を埋めていたが、手の甲はまだ冷たそうだった。
だから、はそこへ自分の手を重ねていた。
いつも自分から繋ぐ手を重ねられたので、紫苑は少し驚いているように目を丸くする。
は、紫苑が手に触れてくれた時のようにそっと握った。

「きみから手を握ってくれるのは、初めてだね」
そう言って微笑みかける紫苑の表情は、嬉しそうに見えて。
は、こうして彼が僕に微笑みかけてくれることが嬉しかった。
「いや、あんまり冷たそうだったから」
気軽に触れることができるようになっても、意味も無く相手に触れはしない。
今が夏だったら、こうして手を重ねることはなかっただろう。

そろそろ温まったので手を離すと、すぐ隣にいる紫苑が身を乗り出して近付いてくる。
紫苑が少しだけ見上げるような形で、綺麗な髪が近付いてくる。
は最初、紫苑が何をするつもりなのかわからなかったが。
途中ではっとして、両手で肩を掴んで静止させた。

「ま、待ってくれ、紫苑。君は今、僕に・・・・・・」
「うん、キスしようとした」
平然とそんな事を言われて、は内心かなり焦った。
紫苑とキスしたことは、ある。
だけど、それは全てそうしなければならない理由があったからで。
今、この状況でそうする理由がわからない。


「・・・どうして、そんな事を?」
「きみのことが好きだから」
その問いに、紫苑は間髪入れずに言った。
またもや平然とそんな事を言われて、はさらに焦りを覚える。
「好き」という言葉を言われるのも、これが初めてというわけではない。
だけど、やはりその言葉には慣れなくて、動揺を隠し通せない。
紫苑は「好き」という言葉に、友達以上の意味を含めて言っているのだろうか。
だから、さっき防いだ行為をしようとしたのだろうか。

だが、それはありえないと、自分で答えを出した。
一部女の部分があると言っても、紫苑はこの相手を男として認識しているはず。
さっきしようとした行為に、恋愛感情なんてこれっぽっちも含まれていないはずだと。
そう自分では思っていたが、尋ねずにはいられなかった。。

「・・・・・・紫苑、君が言ってる、好きって言葉は一体どういう意味なんだ?」
質問の意味がわからないのか、紫苑は首をかしげる。
「君は僕にその言葉を使う時、友達という意味で好きだと言っているのか、
それとも・・・・・・れ、恋愛感情を含ませて言っているのか・・・どっちなんだ」
そう問いかけたとたん、紫苑は目を丸くした。
そして目を伏せ、顎に手をあてて、考え事をする時の典型的な姿勢をとる。
その間、は犬を撫でつつ答えを待っていた。


「・・・わからない」
ぽつりと、紫苑が呟く。
「そんな事、考えたこともなかった・・・ただ、ある時から、ぼくはもっときみに触れたいって思うようになったんだ。。
だからぼくはきみのことが好きなんだなあって、単純にそう思ってた」
触れたくなったから、だから好きだと思った。
そういう理由ならば、犬に触れたくて仕方がなくなるのと同じように思える。

それの触れたいと思う相手が犬ではなく人だったら、口付けたいとまで思うものだろうか。
紫苑はとても友好的で、純粋な少年だ。
自分の思ったことを正直に言えるし、行動に移せる。
だからこそ、自分が自然ととってしまった行動に戸惑うのだろう。

「そうか・・・わからないのか」
わからないとは不明瞭な言葉だが、その答えにはほっとしていた。
もし、紫苑がはっきりと恋愛感情を持っているなんて答えていたら。
どうすればいいのかわからなくなり、普段通り接することはできなくなっていたかもしれない。

だから、は、紫苑は友という関係の範囲内で口付けができる人物なのだと、都合のいい解釈をしていた。
それか、それ以上の関係の事を考えてしまえば自分が動揺してしまう事は目に見えているので。
無意識の内に、発想を抑制しているのかもしれない。。


「・・・ぼくは、きみのことをどう思っているのか、はっきりとはわからない。
そんな中途半端な気持ちできみに触れるのは・・・やっぱり、駄目かな」
「駄目じゃない」
は、何か考えるより先に言葉を発していた。
紫苑が迷い、寂しそうな表情をしたのを見た瞬間、そう言っていた。

「あ、い、いや、駄目じゃないっていうのは、その、キ・・・キスするのは例外だけど・・・」
自分で言っていて恥ずかしくなり、紫苑から目をそらす。
そうしたとたん、体が、抱きすくめられた。
突然のことだけれど、拒もうとすればいつでも拒めるくらい優しく、背中に両手がまわされた。

「前にも言ったように、きみが嫌ならしない。
だけど、こうやって触れさせてくれることを許してくれただけでも、ぼくは嬉しい」
も、彼にこうして触れられることは好ましい事だとは思っていた。
けれど、その気持ちをぱっと言葉で発することができない。
だから、言葉に答えるように、紫苑の背に軽く両手をまわした。

紫苑に恋愛感情を持っているわけではない。
それでも、紫苑にならこうして身を預けてもいいし、口付けられてもそんなに抵抗しないと思う。
だけど、それは、本来なら愛し合った、異性同士でするものだと、勝手だがそう思っている。
だから、紫苑は、これ以上の行為はするべきではないと結論が出ていた。

しばらくそうしていると、すぐ傍から寂しそうな鳴き声が聞こえてくる。
「あ、ごめん。ぜんぜん構ってあげてなかったね」
紫苑がそう言って手を解いたので、も離れた。
紫苑は犬を撫で始めたが、その目は何か他の事を考えているように見えた。

「紫苑、僕はそろそろ帰るよ。その犬、返しといてもらっていいか?」
「ん、わかった」
紫苑は別れを告げる時も、まだ何かを考えているような感じがした。
がその場から立ち上がった時、紫苑ははっとしたようにその手を掴む。
「紫苑?」
さっき考えていた事の答えがまとまったのか、紫苑はじっとを見ていた。

「今度・・・また、きみの家に泊まりに行ってもいい?」
「あ、ああ。いいけど」
「ありがとう。・・・やっぱり、そこまで一緒に行こう。
こいつも、君が一緒のほうがいいって言ってる」
愛らしい犬の瞳に見詰められ、はすぐに了承する。
そして、二人はイヌカシがいる建物の前で別れた。




―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
ここからは紫苑編が始まります。全てはいかがわしくさせるため←