NO.6 番外紫苑編#3


紫苑がに想いを告げてから、二週間が経とうとしていた。
あれから、は露骨に紫苑に避けられていた。
町で見かけて、声をかけようとしても早足で逃げられてしまう。
犬洗いの仕事をしている所に近付いても、犬達をほっぽり出して逃げてしまうほど避けられていた。
家に押しかける事も考えたが、ネズミに迷惑がかかってしまうので気が引ける。

そんな事を繰り返す内に、は日ごとに物足りなさを感じるようになった。
例えるなら、胸に穴がぽっかりと空いたような感じがしていて。
は生まれて初めて、喪失感と、寂しさというものを感じていた。


幼い頃から信じることのできる存在なんていなかったは、は今までずっと、そんな事を感じることはなかった。
だけど、この町に来て信頼できる友が、大切な存在ができた。
それが、失われようとしている。
大切な存在は紫苑だけではない、ネズミもいる。
しかし、その二人とも失うには大きすぎる存在だ。
そのどちらも、決して失いたくはなかった。

このまま何もしなければ、またいつ紫苑に接することができるかわからない。
会って、また前のようになにげない会話ができるようになりたい。
紫苑と接する事のない長い時間が、を駆り立てていた。


は、紫苑がいつも犬洗いをしている川を訪れていた。
確実にここにいるという確証はなかったが、運良く紫苑はいつものように犬洗いの仕事をしている。
とりあえず、離れた所から仕事が終わるのを待っていた。



そうして、一時間ほど待っただろうか。
仕事はようやく終わったようで、紫苑は立ち上がって伸びをしていた。
それを確認したも立ち上がり、紫苑に近付いて行く。
お互いの距離が10メートルほどになったとたん、紫苑は人の気配を感じて振り返る。
そして、一瞬はっとした表情を見せ、逃げるように走り出した。
もすかさず走り出し、紫苑を追う。

紫苑は結構足が早く、すぐには追いつけなかったが、徐々に距離は詰められていった。
紫苑の息が少し切れ始め、スピードが落ちてくる。
好機と思ったは、一気に距離を詰めて紫苑の腕を掴んだ。

「っ・・・!、離してくれ!」
紫苑は振り返り、手を振り解こうとする。
だが、どんなに抵抗されても手は離さず、強く腕を掴んでいた。
やがて観念したのか、紫苑は抵抗することを止め、俯きがちになった。

「・・・離してくれ」
紫苑は、懇願するような声で訴える。
「逃げずに話を聞いてくれるなら」
がそう言うと、紫苑は小さく頷いた。
手を離すと、掴んでいたところが少し赤くなっているのが目立つ。
そこを撫でようとすると、紫苑はさっと腕を引っ込めた。

手を離しても逃げない、避けられていない。
やっと、紫宛と接することができる。
それが無性に嬉しくなり、紫苑の背に片手を添えて、自分の胸に引き寄せていた。
自分から相手を引き寄せるなんて今までにないことだったけれど、ほとんど無意識の内の行動だった。
けれど、紫苑はとっさに両手での肩を押し、まわされていた手を外す。

「ごめん・・・ぼくからは、まだきみに対する想いが消えてないんだ・・・」
「だから君は僕を避けている、それはわかるけど・・・僕はいつまでも君に避けられるのは、嫌だ。
紫苑、どうすれば、以前のように僕に接してくれるんだ?」
紫苑は、俯いたまま沈黙する。
は答えをせかさず、じっと、紫苑の言葉を待っていた。


「・・・ぼくが・・・」
俯いたまま、紫苑がかすかな声で話し始める。
「・・・今のぼくが、以前のように君に接したら・・・きっと、ぼくはもっときみを求めて、歯止めがきかなくなる。
それで、きみを傷付けてしまうのが・・・怖いんだ」
その紫苑の言葉は、にとって告白と同じくらいの衝撃を与えた。

未だかつて、ここまで人に想われる事はなかった。
だが、紫苑はこんなにも自分をないがしろにして、僕の事を想ってくれる。
自分が触れたいものを無理に避け、誰でもない、僕の為に耐えてくれている。
しかし、僕はどうだろうか。
僕は、誰かの事をこんなにも考えて行動したことなんてなかった。
紫苑の事だけを思って、何かをしてあげたことなんてあっただろうか。
利益や特別な理由もなく、彼の為に行動したことなんて。

僕は・・・できなかった。
親切にした事はあったけれど、どれも紫苑の事だけを思ってしたことではなかった。
こんなにも優しい相手にしてあげられる事、それは・・・。


はまだ俯いている紫苑を、思い切り抱きしめる。
!?」
紫苑は驚き離れようと抵抗したが、絶対に離すまいと両腕に力を込めた。
久々に感じる紫苑の体温が、とても懐かしい。
そして、もう離したくないと、そう思った。

「だめだ・・・早く、離してくれ・・・・・・でないと、ぼくは・・・」
「聞いてくれ、紫苑。・・・君は、自分をないがしろにするくらい、僕を想ってくれている」
は、腕から逃れようとする紫苑を制しながら言う。

「それにもかかわらず、僕は君だけの事を思って何かをしてあげた事なんて、一度もなかった。
・・・だから・・・・・今度は、僕が君の事を想ってあげたい」
借りを返したいから、などという考えからではない。
ただ単純に、紫苑こんなにも気遣い、想ってくれるように、自分からも想ってあげたかった。

「今のぼくに、そんな事言わないでくれ。こうしているだけで、本当に、もう・・・耐えられなくなりそうなんだ・・・」
紫苑は抵抗することは諦めたものの、の顔を見ようとはしない。
腕も、の背を抱き返すことはなく、ただ下げられているだけで。
その手は、感情を抑圧するかのように固く握られていた。


「紫苑・・・もう、耐えなくてもいい」
は一旦腕を離し、半ば無理矢理顔を上げさせる。
紫苑は何か言いたそうにしてを見上げていたが。
何かを言われる前に、はそこに口付けていた。

「!?・・・んっ・・・」
紫苑はとっさにの肩を押して離れようとする。
だが、は決して身を離そうとしなかった。
羞恥心が強く、プライドも高い自分が、自ら口付ける日が来るとは思ってもいなかった。
だけど、今の紫苑の為にできる事は、これしか思いつかなくて。
そう思ったとたん、自分を抑制している羞恥やプライドなんて捨てていた。
自分の為に必死に耐えている紫苑を、これ以上見ていたくなかった。



唇を離すと、紫苑は戸惑いを露わにしてを見上げた。
「僕の為に、耐えなくてもいいんだ。
君が僕を受け入れてくれたように・・・僕も、君を受け入れる」
もう、後には引けない。でも、この言葉に対して後悔はしていない。
これで、紫苑が楽になるのなら、もう避けられないというのなら。
全てを許そうと、そう決めた。
そう思える程、紫苑の存在は大きかった。

「いい・・・のか・・・?、たぶん、ぼくは・・・きみに・・・・・・」
紫苑は言葉を詰まらせたが、その先は言わずともわかっていた。
それを覚悟して、さっきの言葉を言ったのだから。
「それでもいい。・・・僕は、君と・・・・・・離れたくないから・・・」
言葉の途中で羞恥心が込み上げてきて、も言葉に詰まりつつ言った。

・・・!」
紫苑はの背に、強く腕をまわして抱きつく。
は胸の内が温かくなるのを感じ、紫苑を抱き返した。
これで、かけがえのないものを失わずにすんだ。
そして、ずっとまとわりついていた喪失感がすっと消えて行った。

「でも、どうしても耐えられなくなった時だけでいい。
その時だけ・・・ぼくを、受け入れてほしい」
まだ耐えるつもりでいる紫苑に、は苦笑し、短く了承の返事を返した。




その後、は再び紫苑を家に招いた。
紫苑はその申し出がよほど嬉しかったのか、子供のように喜んでいた。
も、紫苑と共に過ごせる時間に喜びを感じていて。
その時間は、紫苑がに想いを告げる前となんら変わりなく過ぎていった。
だが、はいつ紫苑が自分を求めてくるかと思うと、表には出さなかったが緊張する。
それはまだまだ先の事かもしれなかったが、そんな予測だけでは落ち着けない。
そして、紫苑とベッドに入った時、何もされていなくてもの心音は早かった。


・・・」
「え、あ、何?」
緊張状態の時に話しかけられ、声が裏返りそうになる。
「・・・ありがとう」
紫苑の言葉は、それだけだった。
その一言だけでも、十分に紫苑の想いを受け取る事ができた。
は軽く微笑み、紫苑の髪を撫でた後、目を閉じる。
さっきまであった緊張は、いつの間にか吹き飛んでいた。




そうして、二人はお互いにかけがいのない存在を失わずにすんだ。
紫苑はまだを気遣っているのか、性急に求めてくることはしなかった。
けれど、いずれ、その時は来るだろう。
そして、その時が来たら、紫苑を受け入れようと思う。
強い羞恥心やプライドが邪魔をするかもしれない。
けれど、全てを彼に許そうと、そう決めた。
紫苑は、僕にとってとても大切な、手離したくない存在だと気付いたから。



―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
予想してたシーンがなくてガッカリした人もいるかもしれませんが・・・。
そういうシーンが苦手な方もいるかと思うので、この回には入れませんでした。
ですが、相変わらず妄想力はありあまっているので、次の回で短編っぽく書こうともくろんでます。
新年早々煩悩盛り沢山な内容になると思われるので、ご観覧の際は背後注意!