NO.6 短編、お互いの声

紫苑は、今日も川べりで犬洗いの仕事をしていた
川の水は結構な冷たさだが、温かい犬と一緒にいるのでそんなに気になっていなかった
そして、そこへはたまに流星がやってくる
今日も、丘へ行く途中に紫苑を見かけた流星は、犬がたむろしているその場所へ近づいていった

「紫苑」
流星が背後から声をかけると、紫苑は一旦手を止めて振り向いた

「あ、お早う流星」
紫苑は友人に会えたことで嬉しいのか、笑顔で挨拶をした
「お早う。今日は結構たくさんいるんだな」
紫苑のまわりには、順番待ちの犬が十頭はいた
その中には大型犬が多いので、今日の仕事は大変そうだった
紫苑が今洗っている犬も、毛がふさふさとした大型犬だった
たくさんの犬に囲まれて少し羨ましいと思うが、冷たい水で全部を洗う気にはとてもなれなかった

「もう数匹洗い終わったんだけど、今日はやけに数が多くて」
会話中、折角気持よく洗われていたのにそれを中断された犬が、じっと紫苑のほうを見ていた
まるで、早く再開してくれと訴えているようだった
だが紫苑は後ろを向いているせいで、それには気付いていないようだった

「少し、休憩したらどうだ」
その犬には悪かったが、これだけの量を洗い続けるのは疲れるだろうと思っての提案だった
「そうだね・・それじゃあ少し、休もうかな」
紫苑が立ち上がり、背筋を伸ばすように背伸びをした
すると犬が起き上がり、また何かを訴えるような眼差しで紫苑を見上げた
だが、紫苑はまたもやその視線に気付かなかった

それをじれったく思ったのか、洗われていたその犬が紫苑の足に体をぶつけた
そのとき、背伸びをして爪先立ちになっていたせいで、紫苑の体がぐらりと揺れた

「あ」
紫苑が何かに気付いたような声を出したときは、もう遅かった
すでに、自分ではバランスを保てなくなるくらい、体が傾いていた

「紫苑!」
流星はとっさに倒れる紫苑の腕を掴もうとしたが、周囲に犬がいるので一歩を踏み出せなかった
手を伸ばしたが届かず、水飛沫が弾け飛んだ
紫苑は完全にバランスを崩して倒れ、川の中に落ちた



「あー・・・」
紫苑は立ち上がり、自分の現状を見た
幸いにも、その川はそれほど深くはなかった
だが、ズボンは水に浸り、たっぷりと水を含んでしまっていた
靴は完全に水に浸かってしまっていて、逆さまにすると水が流れ落ちてきた


流星は、黙ってその様子を見ていた
犬に川へ落とされたなんて、滑稽で笑えることかもしれない
だが、紫苑が川に落ちた原因は自分のせいかもしれないと思うと、笑えなかった
自分が、少し休んだらどうだなどと言わなかったら、犬も紫苑を落とすなんてことはしなかっただろう
短気な犬も犬だが、その犬をいらつかせるようなことを言ってしまった自分にも、非はなくはなかった
だがそれでも僕は、さらに犬に歯がゆい思いをさせる言葉を言った


「・・・一旦、家に帰ったほうがいい」
犬の耳が、ぴくりと動いた
「え、でも、まだ・・・」
紫苑は、名残惜しそうに周囲の犬を見回した

「そのままじゃ完璧に風邪をひく。そうなる前に、帰ったほうがいい」
いくら温かい犬がたくさんいるといっても、濡れたままの服で長時間外にいるなんて、言語道断だ
風が吹いて乾かしてくれたとしても、その頃には体力を奪われていることだろう
紫苑が渋っても、無理矢理腕を引っ張って連れて行くつもりにしていた


「そうだね。・・・でも」
案の定、紫苑は渋っている様子だった
僕は有無を言わさず紫苑の腕を取り、犬の視線など気にせず引っ張った

「君が熱を出したらネズミに迷惑がかかるだろ。大人しく、家に帰るんだ」
紫苑が、ネズミのことを大切に思っていることは、知っている
だから、そのネズミを掛け合いに出せば、紫苑が何も言えなくなるということも知っていた
紫苑は少しの間何かを考えるようにして俯いていたが、やがて家に向かって歩き始めた
流星はやれやれといったように一瞬目を伏せ、手を離して紫苑と歩調を合わせた




ネズミの家には、流星もついてきていた
自分に非がなくはないので、服が乾くまでの間は共に居るつもりだった
上半身ならまだしも、下半身の服がないとなると、何かと不便が起こるかもしれないと思った

家の中に入ると、紫苑は早速ストーブを点けた
ネズミはいないのか、部屋には人の気配がなかった
ここまでついてきたはいいものの、流星は手持ち無沙汰だった
この家のどこに何があるのかなんて、知っているのは本棚とベッドくらいのものだった


流星が室内で棒立ちになっていると、いつの間にか紫苑はいなくなっていた
何もできることがなさそうなら、もう帰ろうかと思った
だが、黙って立ち去るのも何だと思い、流星は暇でも潰そうと本棚の前に立った
本に詳しくはないので、一番端にある一冊を何気なく取ってみた
ページをぱらぱらとめくってみたが、さして興味のある文章はなかった

「あ、ハムレット」
本を閉じたとき、声をかけられた
部屋の入口には、服を着替えた紫苑が立っていた

「流星、ハムレットに興味があるの?」
紫苑は、流星が持っている本を指差して言った
「いや。たまたま手に取っただけだ」
本を棚に戻そうとしたとき、足元で小ネズミの鳴く声が聞こえた
下に目をやると、その小ネズミは前足を持ち上げて本の方を見ていた

「ハムレット、読んでほしいのか?」
紫苑が尋ねると、小ネズミは返事をしたかのようにチチッと鳴いた
「その小ネズミ、本を読むのか?」
「うん、ぼくが読んでやるだけだけど。よかったら、流星も聞いていく?」
流星は、動物がこんな小難しそうな本の朗読を聞くのかと、疑った
紫苑はハムレットと呼ばれた小ネズミに本当に本を読み聞かせるらしく、ベッドに座った
折角なので、その様子を見ていようと流星も紫苑の隣に座った
紫苑はページをめくり、そして読み始めた




紫苑の朗読は、とても流暢だった
慣れているのか、言葉に詰まることなく、流れるように読み進めてゆく
小ネズミは紫苑の肩の上で、じっとその声に耳を傾けているようだった

僕も、じっと紫苑の声を聞いていた
滑らかな言葉と、穏やかな声は聞いていて落ち着く
朗読を聞いているというよりは、緩やかな音楽を聴いているような気がした

耳に伝わる声が、心地良かった
もしかしたら、小ネズミもこの声にひかれているのかもしれない
僕はいつの間にか目を閉じ、紫苑の声だけに集中していた
視覚なんて遮断して、伝わる声だけを感じていたかった




朗読が終わると、流星は目を開いた
紫苑は本を閉じ、流星の方を向いた
「ハムレットはこの本が好きで、よく読んでやってるんだ」
それは本の内容ではなく、君の声が好きなのではないのかと、そう予測がついた

「つまらなかったかな。流星、眠たそうにしてたから」
紫苑は、少し心配そうな声で尋ねた
ずっと目を瞑っていたから、そう思われてしまったのかもしれない

「そんな事ない。ただ、君の声があんまり穏やかだったから・・・何だか、心地良くて」
紫苑は、いつも僕を穏やかにしてくれる
優しい性格、真っ直ぐな言動、そして心地良いとも感じた声
そのおかげで、そんな彼と接してきたおかげで、今となっては僕の心はずいぶんと落ち着いている実感があった

「ありがとう。流星がそう言ってくれると、嬉しいな」
紫苑は、屈託のない笑顔を流星に向けた
そんな素直な反応に、流星はふっと笑った
こんなに容易く感情を表に出せる紫苑が、羨ましくもあった



紫苑が本を戻しに行こうと立ち上がると、ハムレットが流星の肩に飛び移った
その様子を見て、紫苑は再び同じ場所に腰を下ろした

「流星にも、読んでほしいって」
「え・・・」
紫苑はそう言って、流星に本を手渡した
流星はそれを受け取ったが、開こうとはしなかった

「でも、僕は君みたいに流暢に読めないだろうし、聞いてもつまらないよ」
僕は、本の朗読なんて今だかつてしたことがなかった
本をいちいち声に出して読むのは面倒だったし、第一聞かせる相手なんていなかった
初めて見る本を声に出して読み聞かせるなんて、無謀なことだった

「そんなのわからないじゃないか。ぼくも、流星のハムレットが聞きたい」
紫苑の言葉に同調するかのように、小ネズミが小さく鳴いた
流星はそれでも迷ったが、一人と一匹の視線に観念して、ページを開いた

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