NO.6 短編、信頼関係


流星は、久しぶりにイヌカシのもとへ犬を借りに来ていた
最近は、犬以外に心のよりどころとなる存在ができたので、以前に比べれば借りる回数は少なくなっていた
それでも、犬と居ると安心することには変わりがない
今日は少し寒いから大型犬を借りようかと考えつつ、流星はイヌカシを探していた



イヌカシを見つけることは、そんなに難しくなかった
人の気配を察知することは得意だし、ましてや複数いる犬の気配を辿っていくのは安易なことだった
イヌカシも誰かが近くに居ることを察したのか、流星が声をかける前に振り向いた

「久しぶりだな、物好きさん。犬が恋しくなったのかい?」
イヌカシは相変わらず、少し毒を含んだような、はたまたからかうような口調で言った
「まあ、そんなとこだ」
流星は、淡白に返事を返した
イヌカシの隣では、尻尾を振って何かを待ち望んでいるような犬が一匹いた

「美人なお得意様に借りられるのを、心待ちにしてるみたいだぜ」
イヌカシは、その犬にちらっと目配せして言った
「それはどうも」
流星は、また淡白な返事をした
今の言葉は褒め言葉に聞こえるが、十分に皮肉な毒が含まれていたことを流星は聞き逃さなかった
男に美人なんて何だか女らしいと言われている気がして、流星にとっては不快な言葉の一つだった
けれど、イヌカシの毒舌はこの厳しい環境で自分を弱く見せないための去勢なのかもしれないと察していた
ただ、本当に天性のものかもしれないが
そんな毒に真っ向からつきあうのは無駄なこととして、流星の返事は淡白なことが多かった

「あ、そうそう、そういえば、紫苑から聞いたんだけど」
流星がイヌカシの傍に居る犬を借りようと近付こうとしたとき、イヌカシがふいに言った
流星は立ち止まって、言葉の続きを待った


「あんた・・・両性具有者なんだって?」


その言葉が発された瞬間、流星は目を見開いてイヌカシを見た
自分が最も忌み嫌っていたその言葉が、目の前の人物から発されたことが信じられなかった
この街では、紫苑とネズミ以外には知られていないはずのこと
それがその二人以外に知られていることは、流星にとってかなりの衝撃だった
それと共に、流星の中には様々な感情が渦巻き始めていた

「まー、最初に聞いたときは驚いたけど・・・」
流星は、言葉の続きを聞く前にその場を走り去っていた
寂しそうな犬の声を聞いたが、速度を緩めはしなかった
今向かうべきところは、紫苑の元だった




流星はそのまま走ってネズミの家まで行こうかと思っていたが、その必要はなかった
紫苑は丁度犬洗いの仕事をしており、川の近くで座っていた
流星は息を整えるために一旦止まり、早足で紫苑のもとへ歩み寄った
草を踏む音が聞こえたのか、紫苑も流星に気付いたようだった

「おはよう、流・・・」
紫苑は、相手の名前を呼ぶ途中で言葉を詰まらせた
いつもとはあきらかに違う流星の雰囲気に驚いていた
それを悟ったのか、犬達も不思議そうに流星を見上げていた

「紫苑、イヌカシに僕のことを話したのか」
流星は、低い声で問いかけた

「うん、言った。だって、イヌカシは・・・」
「ばか!」
流星は叫んでいた
その声に、犬達は驚き怯えていた
紫苑も、目を丸くしていた


「・・・やっぱり、君も同じなのか」
流星の声のトーンが下がり、音は小さくなった
半ば問いかけるような、そんな口調だった

「NO.6にいた奴らと・・・君も、何も変わらないのか・・・」
怒りを通り越して、流星は憂いを感じていた
信頼して、友という関係になれたと思っていた
君も、何も変わらないんだと、言い切りたくはなかった
まだ、信じていたいという思いが自分の中にある

けれど、紫苑はイヌカシに言ってしまった
僕が、最も忌み嫌い、隠したがっていたことを
紫苑がそんなことをするはずがない
NO.6の奴らと同じような、裏切りなんてするはずがないと主張したかった
そう望んでも、紫苑があのことを言ってしまったという事実は変えられなかった


「流星、怒っているのか・・・?」
その問いには答えず、流星は厳しい目つきで座ったままの紫苑を見下げていた

「僕が・・・僕が、愚かだったんだ。NO.6でも、この街でも、他人を信頼した僕が愚かだったんだ!」
その叫びは、紫苑に向けられたものではなかった
愚かなことをした自分自身を叱責する、そんな叫びだった

「打ち明けるべきじゃなかった!
一人に打ち明ければ、そこから広まっていくことは目に見えていたのに、僕は・・・」
紫苑からイヌカシに、イヌカシから犬を借りに来る客に、その客から街中に
もう、時間の問題だ
また、僕を見る人の目はNO.6に居たときと何ら変わりなくなる

流星は、再び走り去っていた
これ以上紫苑の前に居ると、相手を罵倒する言葉を使ってしまいそうだった
それだけは、したくなかった
一時だけでも、自分が信頼した相手に怒りをぶつけることはしたくない
そんな感情は全て自分のせいにして、自分自身にぶつければいい
十分に口止めをしておかなかった自分のせいだと
赤の他人に心を許した自分が愚かだったのだと
紫苑へ矛先が向かないように、流星はずっと抑え込んでいた





自分の家へ帰ったとたん、感情がどっと溢れ出てきた
隠し通してきたことを言われたことへの憂いが
それを言ったのが紫苑だからこそ、こんなにも大きな憂いが襲ってくる
紫苑に対して、疑いの心など持ちたくはなかった
純粋で、真っ直ぐな友人に、こんな感情を持ちたくはなかった

けれども、過去のしがらみがそうさせてはくれない
こんな自分には、信頼できる他者など一人もいない
紫苑の行為は、そんなことを誇示するかのように重く圧し掛かっている
流星はベッドに腰掛け、何も見ていないかのように視線を床に落としていた




そうしてじっとしていると、控え目に玄関の扉が開かれる音がした
誰が入ってきたのかは予測がついたので、流星は反応しなかった

「流星・・・」
また控え目な声で、紫苑が名を呼んだ
それでも、流星の視線は動かなかった
紫苑は黙って、流星の隣に腰かけた

「流星・・・ごめん。勝手に話したことは、悪かった」
反応を示さない流星に、紫苑は静かに言った
流星は反応を示さないのではなく、示せなかった
罵倒して、追い返すようなことは絶対にしたくはない
むしろ自分は後から紫苑が来てくれることを期待して、玄関の鍵をかけなかったように思える
けれど、過去のしがらみのどうしようもない憂いが取り払えないでいた

「けど、イヌカシは、絶対大丈夫だ。言いふらしたりなんかしない、ぼくが保障する」
今度ははっきりと伝えるように、紫苑は一言一句を強く言った


紫苑にとって、イヌカシは友達だ
そして、しょっちゅう犬を借りに行っていた僕もイヌカシと友達なんだと、そう認識されてもおかしくはなさそうなものだ
正直なことを言うと、イヌカシはぶっきらぼうだが悪人ではないと、そう感じている
紫苑の言うとおり、無意味に人の噂を流すようなタイプにも見えない

けれど、不安で仕方がなかった
敏感になりすぎている神経が、震えていた


「何で・・・話した?」
呟くように、流星は尋ねた
その問いに、紫苑はすぐに答えた

「知っておいてほしかった。きみに、イヌカシのことも信頼できる存在だって、認めてほしかった」
相変わらず、真っ直ぐな瞳で紫苑は主張した
犬洗いをしているだけあって、紫苑とイヌカシは毎日のように会っているだろう
そこから、紫苑はイヌカシもネズミと同じように信頼できる人物だと、そう学んだのだと思う

よほどの自信があったからこそ、あのことを言った
紫苑は決して、軽率に言葉を言う人物ではないと知っていた
けれど、面倒くさい性分が、また疑心をよみがえらそうとしてくる
結局は、裏切られるのだと
NO.6に居た頃の、異常なまでの警戒心が思い出されるようだった

「けれどその結果、ぼくはきみを傷付けた・・・。
ぼくは、きみの信頼を裏切ったんだ・・・」
紫苑の声は、だんだん力をなくしていった
真っ直ぐだった瞳も、申し訳なさそうに憂いを帯びていた


「僕・・・」
呟きともとれないような、とてもか細い声が流星の喉から発された

「信じたい・・・君のことも、イヌカシのことも、信じたいのに・・・」
後に続く言葉は、喉元で掻き消された
情けないことを言おうとしていると、途中で判断できた
どうしても自分の中で抑制がかかってしまう
あと一息というところまできていても、わずかな不安感が否めない
イヌカシと友人関係になってもいい、むしろ喜ばしいことだと思うのに
あの言葉に関しては、とんでもなく臆病になっている自分に嫌気がさした

もう、自分には他人を完璧に信頼することなんて、できなくなっているのかもしれない
そう思うと、憂いはさらに大きくなる
自分のすぐ隣にいる友人を信じきることができない自分がもどかしくて
流星の気分は、だんだんと落ち込んで行った

こんな自分を紫苑はどんな目で見ているだろうかと、流星はちらと隣を見た
そうしたとたん、流星は目を見開いた
憂いを帯びた表情とは一変し、驚きが現れた
流星を驚愕させたものは、無色透明の液体だった

「流星・・・ぼくは、ぼくは・・・」
紫苑は、泣いていた
見てわかるほど目に涙を溜め、溢れ出た滴が頬を伝って流れ落ちていた
その瞬間、流星は憂いを忘れ、新たに動揺を覚えていた
なぜ、紫苑が突然泣き出してしまったのかわからなかった

「流星、ぼくのことを・・・信じられなくなってもいい。
けれど、世の中の全ての人が信じられないなんて、思わないでくれ・・・」

震える声で、紫苑は哀願した

「紫苑・・・」
その言葉で、流星は紫苑の涙の理由にだいたい勘付いた
原因は、「信じたいのに」という発言だろうと思った
流星は、他者を信じたいのに信じられないのは自分のせいだと言いたかった
けれど紫苑は、自分が信頼を裏切ったから、自分のせいで流星が他者を信じたいのに信じられなくなったと思った
だから、紫苑は泣いている
自分のせいで、流星はまた独りになってしまうかもしれない
紫苑はそれを恐れ、憂い、涙を流している
そう予測した流星は、憂いなどに構ってはいられなくなった
早く誤解を解いて涙を押さえ込ませたいと、そんな思いしかなかった

「紫苑、違うんだ、君のせいじゃない」
流星は紫苑と向き合い、零れ落ちてゆく滴を指でそっと拭った

この指に触れた涙は自分に向けられているものだと思うと、胸が押しつぶされるように痛む
流星は今まで、他者の心配をしてこんなにも涙を流す相手を見たことがなかった
それだけに驚き、動揺していたが、胸の内には形容しようのない温かさを覚えていた

「紫苑、君が悲しむ必要なんてない。全部、臆病な僕が悪いんだ」
再び名を呼び、訴えかける
ずっと、警戒していて、怯えていたせいで
そのせいで、紫苑を悲しませてしまっている

人を信じることが怖くて、僕が保身にばっかり気をつかってきたせいで
目の前の人物は、泣いている
僕はそれが、たまらなく悲しい
相手が悲しんでいることが、悲しい
彼の涙を、早く止めたい

切にそう願った流星は、自ら紫苑を引き寄せた
紫苑を少し俯かせ、庇うようにして抱きとめた
両腕で、まるで親が子を抱きとめるように
他者を慰める言葉を多く持っていない流星の、精一杯の行動だった

「僕は、君を信じる。イヌカシだって、信じられると思う。だから、涙を止めてくれ・・・」
そのとき、疑心は嘘のように消えていた
とにかく、紫苑に泣き止んでほしい心情で一杯だった
けれど、それ以上に疑心を上回る感情が溢れていた


疑うものか、こんなにも素直な彼を
恥ずかしむこともなく、友の為に泣いてくれている彼を
彼が信じてくれと言うなら、イヌカシだって信じられる
こんなにも温かい彼を、信じたい
今の流星には、紫苑に絶対的な信頼を寄せたいという願いが生まれていた


「やっぱり・・・やっぱり、きみは優しい・・・。ネズミや、イヌカシと同じで・・・」
紫苑の声は、もう震えてはいなかった
落ち着いたのだろうかと、流星は紫苑にまわしていた腕を解いた
けれど、今度は紫苑のほうから抱きついてきたので、涙が止まったのかどうかは確認できなかった

「・・・僕は優しくなんかない」
流星の口調に、謙遜している様子はなかった
優しい人は人を傷つける仕事なんてしないと、そんな言葉が省略されているかのようだった

「優しいよ。きみは、ばかとは言ったけど、一度もぼくを責めなかった」
「けど、あれは・・・」
紫苑を責めなかったのは自分の性格上のことで、優しくしたつもりはなかった
けれど、流星はいちいち説明はしなかった
紫苑にはどう説明しても、優しいという印象は覆らない気がした

そこで紫苑が離れ、流星と向き直った
目は赤くなっていたが、もう雫は流れ落ちていなかった

「流星、僕を信じてくれるのなら・・・イヌカシに会ってほしい」
紫苑がそう頼んだとたん、流星は不安げに視線を逸らした
けれど、首を横に振りはしなかった
流星は小さく頷き、立ち上がった

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