NO.6 短編、罪の意識 前編(ネズミ)

紅い
先の見えないほど大きい、足元に広がる真っ赤な水溜り
刃先から一滴一滴と滴る雫が、水面を震わせている
足を踏み出そうとしても、何かがまとわりついているように重く、動かす事ができない
両手は無気力に、だらんと下げられている
その指先からも、生暖かい液体が滴り落ちて行く

雑音が頭に響く
ノイズのような音が、耳を通り過ぎて行く
人の呻き声ともとれるその音はどんどん音量を増し、水面を揺らす
耳を塞ぎたくても、両手は少しも動いてくれない

音は容赦なく響き、雑音が人の声だと認識される
侮蔑、中傷、そして怨み

お前は汚れているんだ
その手は幾つの罪を犯した
紅く染まったこの世界がお前には相応しい

混じり合う声をはっきり聞き取ってしまうこの耳を、いっそのこと切り落としてしまいたくなる
止めろと叫ぼうとしても、声帯が声を発さない
声は容赦なく響き渡る

頭痛がする、視界が歪む、足から力が抜け、立っていられなくなる
紅い水へと、体が沈んでいく―――




流星は、嫌な寝汗をかいて目を覚ました
外はまだ暗く、起きるには中途半端な時間だった
両手を天井に掲げ、確認してから体を起こす
こんな時間だというのに、悪い夢見のせいで脳ははっきりと覚醒していた

手袋を外す生活をして、もう一週間になる
この悪夢を見るようになったのは、それからだった
たとえこの手がどんなに汚れていても、幾多の罪を犯してきても
それでも触れていいと、そう言ってくれた彼等がいた

だが、そんな事は許さないと言わんばかりに、ほぼ毎晩同じ夢を見る
この両手がどんなに汚れているのかを、改めて認識させるように
自分が罪を負った人間だと言う事を、忘れさせないために
そのせいで、目が覚めると必ず両手の状態を確認するようになってしまった
そして、その色が人の肌の色だと確認した後、起き上がって水を飲みに行く

それからはもう眠れなかった
完全に覚醒した脳が、再び悪夢を見る事を拒んでいるようだった
嫌な習慣がついてしまい、このごろ寝不足だと自分でも感じていた
体はまだ動くのが億劫だと言いたげだったが、喉の渇きは辛い
台所へ行こうと立ち上がった瞬間、一瞬だが視界が歪み、めまいがした
珍しい事だったが、すぐにおさまったので気に留めなかった
そして喉を潤した後は、何をするわけでもなくベッドに寝転がり朝を待つ
もう何日も、こんな事が繰り返されていた




数時間後、やはり眠る事はできないまま朝を迎えた
窓の外から陽の光がさしこんできている
天気が良いのだから気晴らしに外へ行こうと体を起こすと、なぜか体に倦怠感を覚えた
それでも立ち上がるとまた一瞬めまいがしたが、先程と同じくすぐにおさまったので、気にせず外へ出た


外の光は、いつもよりやけに眩しく感じられた
早速いつもの丘へ行こうと足を進めようとしたが、なぜかその足が重い
力を入れれば何とか動くが、まるで足に重りがついているかのようだった
ただ横になっていただけなのだからそんなはずはないと無理矢理歩みを進めていったが、
そのせいか重りが全身に課されているような強い倦怠感を覚えた

「・・・・・・・」

体は重いが、歩けないほどではない
むしろ、こうして体に力を入れていないと重圧に潰されてしまいそうだった

「おい・・・・・・」

だが、一歩踏み出すたびに倦怠感はだんだん強さを増してくる
坐り込んでしまいたいと思ったが、一旦そうしてしまえば、もう立ち上がれなくなる気がした
だから、せめて目的地までは行こうとそのまま歩き続けていた

「おい、流星!」

ふいに背後から名を呼ばれ、そして肩を叩かれ、振り返る
そこには、心なしか驚いた表情を見せているネズミがいた

「何だ、君か・・・」
流星は淡白な対応を見せながらも、背後に人が近付いていた事に全く気付かなかった自分に驚いていた
この町で警戒心を疎かにした事など、なかったはずだった
なのに今は背後に接近を許し、あろうことか肩を叩かれるまで気配を感じる事ができなかった
さっきから感じる倦怠感のせいかもしれないが、今日の自分はどこかおかしいのかもしれないと薄々思っていた

「あんた、どうかしたのか。三回も名前を呼んだんだけど」
そんなに名前を呼ばれていたなんて、全く気付かなかった
それどころか、物音一つ耳に入っていなかった気がする

「別に、どうもしてない。・・・じゃあな」
自分が本調子ではないとはわかっていたが、そんな弱っているところを他人に見せたくはなかった
何か勘付かれない内に早く去ろうと、さっときびすを返した瞬間、視界がぐらりと揺れた
今度は一瞬の事ではなく、数秒経っても視界はぐらぐらと揺れている

「・・・・・!」
背後でネズミが何か叫んだようだったが、その声に集中できず、聞き取る事ができない


夢と同じだ

腕に、足に、全身に、力が入らなくなっていく

体が、崩れる

ネズミの前で、情けない姿を見せてしまう
それは嫌だとプライドが訴えていても、それだけで体を支える事はできない

視界が、青から黒に変わっていく
夢と、同じだ

体が・・・沈んでいく―――

NEXT