NO.6 番外 ネズミ、紫苑編#3 前編


―受け入れるために―


ネズミと紫苑が流星の家を訪れたその翌日
流星は、二人の想いをどうしても完全に受け入れられない自分に、もどかしさを感じていた
それは、自分が相手に心を開いていないからだと
信頼できるはずの相手でも、無意識の内にまだ控えているところがあるのだと、そう思っていた

受け入れたいのに、受け入れられない
そんなもどかしさを取り払うために、流星はイヌカシの元を訪れていた




「イヌカシ、毛並みが良い犬を一匹貸してほしい」
イヌカシの周囲にいる犬は、いつもより少なかった
今はちょうど洗われているときなのだと、流星にはすぐにわかった

「今はあんまり数がいないけど、こいつならどうだ?」
イヌカシが口笛を吹くと、どこからか大型犬が駆け寄ってきた
走ると毛がふさふさと揺れ、申し分ない毛質のようだった

「じゃあ、そいつを借りる」
流星は硬貨を投げ、イヌカシに渡した
そのやり取りで自分が借りられることをわかっているのか、犬は流星の隣に寄り添った
流星は犬の頭を一撫でして、部屋へ入った


「しばらく、ここで待っていてくれ」
部屋に入るとすぐに、流星は犬にそう言った
犬は少し寂しそうに自分の借り手を見上げたが、その場に伏せて従うことを示した
それを確認すると、流星は再び外へ出た




廃墟を後にした流星は、一直線にある場所を目指して歩いていた
犬が集まっている場所
紫苑がいつも仕事をしている場所へ、流星は向かっていた

「紫苑」
目的の場所、そして目的の人物に接近した流星は相手に呼び掛ける

「あ、流星」
ちょうど最後の一匹を洗い終わったのか、紫苑は手を止めて声の主に向き直った

「少し、つきあってくれないか」
流星の言葉に、紫苑はなぜか驚いたような表情をした

「え?つきあうって、流星、ぼくと・・・」
「違う、一緒に廃墟へ来てほしいだけだ」
何かを勘違いされると察した流星は、すぐに説明した

「そっか。うん、いいよ」
紫苑は少し肩を落としたようだったが、ぱっと立ち上がって流星の隣に並んだ
そして、二人は廃墟へ向かった




廃墟へ紫苑を連れてくると、流星は犬を待機させていた部屋へ誘導した
紫苑が部屋へ入ると、犬は嬉しそうに尻尾を振った
もう、紫苑に懐いていない犬はいないのではないかと流星は思った

「あ、久しぶり」
紫苑はまるで友人に話すかのように声をかけ、犬に近付く
すると、犬はすぐさま紫苑に擦り寄った

「・・・仕事の後で、体が冷えてると思ったから。だから、待機させておいたんだ」
流星は説明口調で背後から言った

「そうなんだ・・・。ありがとう、流星」
紫苑は一瞬振り返り、微笑んでお礼を言った
そして、すぐに犬のふさふさとした毛を撫で始める
やはり冷えていたのか、たまに抱きしめ、じっくりと犬の体温を堪能しているようだった


しかし、本当の目的はそんなことではなかった
これは、自分の心を開かせるための過程にすぎない
紫苑は流星の思惑など知らず、無防備に犬を撫で続けている


流星は、静かにその背後へ近付く
そして、察されないよう、慎重にその背へ手を伸ばした



だが、その手は相手に触れることなく止まった
とたんに、躊躇いが生まれる


本当に触れてしまってもいいのか
純粋無垢に近い彼に、本当に
この汚れきった手が、自ら進んで触れてしまってもいいのかと


流星がそこで硬直していると、流石に紫苑も気付いたのか後ろを振り返った
「あ、ごめん、ぼくばっかり撫でて」
場所を変わってほしいのかと思った紫苑は、犬から手を離そうとした

「いや、いい、そのまま、撫で続けてくれ」
紫苑が移動しないうちに、流星は急いでそう言った

「それじゃあ、もう少しそうさせてもらおうかな」
紫苑は再び犬の方を向き、毛を撫でる
あまりぐずぐずしてはいられないと、流星は拳を握った



手を伸ばしさえすれば、すぐに届く位置
だが、その距離が縮められない
触れたいという思いと、触れてはいけないという思い
葛藤が渦巻き、行動を躊躇わせる


伸ばそうとする手はやはり手は止まってしまい、空を掴む
いつ、紫苑がもういいと言い出すかわからない
早く行動しなければ、犬を借りたことに何の意味もなくなってしまう

今日は、自ら紫苑に触れる
そのために、紫苑を完全に無防備にさせるために、こうして準備をしたのに



「流星、ぼくはもう十分温まったから、次はきみが・・・」
紫苑の体はとうとう温まりきってしまったのか、その場から退こうとした

「紫苑!・・・もう少し、少しだけ・・・そのままでいてくれ」
焦った流星は、たまらず呼びかけた
紫苑は何事かと目を丸くしたが、強くもあり懇願する様でもある口調に従った


もう、これ以上引き延ばすことはできない
躊躇ってはいられない
これは、自分が相手を受け入れるための一歩となること

彼なら、大丈夫だ
避けられることはない、今までとは違う
彼なら、絶対に・・・


流星は手を伸ばす代わりに、膝を曲げて紫苑とほぼ同じ高さになった
そして、とても慎重に
とてもゆっくりと、紫苑の体に両腕をまわした



その瞬間、紫苑の動きが止まった
止められたわけではない、紫苑にまわされている腕の力は、とても弱弱しかった

服の上から、かろうじて体に触れている
遠慮を通り越して、恐々と
流星は、紫苑に触れていた

抱きしめるというには、力が弱すぎる
ただ、手を添えているという様子だった
けれど、これが精一杯だった


汚れたこの手は、誰も抱き留めるべきではない
ずっと、そう思い続けていた
そんな手が、今、他者の体を抱いている
流星には申し訳ない思いが湧き上がり、ものの数秒で手を離した
紫苑は犬に背を向け、流星と向き合った


「・・・ごめん。急に、こんなことをして」
流星は、紫苑から目を逸らしていた
抱きつかれ、口付けまでもされた相手に謝るのは、おかしいことかもしれない
けれど、それは全て相手の望むタイミングで、相手からしてきたこと
望まない時にこんな手を回されたら、相手は不快感を覚えてしまったのではないかと
流星は、そんな不安感を抱いていた

「謝ることなんてないよ。だって・・・ぼく、嬉しかった・・・」
紫苑から、優しい言葉がかけられる
それでも、流星は紫苑と向き合えないでいた

優しい言葉だからこそ、素直に受け入れられない
今まで真逆の言葉ばかり浴びせられてきた流星には、屈強な壁ができてしまっていた
流星が視線を合わせないでいると、紫苑はふいにその顔を覗き込んだ

「もう一度・・・きみから、抱きしめてほしい」
遠慮をすることなどないと言うように、紫苑は優しく微笑んだ


「・・・君が、そう望むのなら」
流星は、また恐々と紫苑へ両腕をまわした
腕をまわして添えることが精一杯で、引き寄せることはできない
けれど、いつもとは少し違う温かい思いが、流星の中にはあった


紫苑は、流星に強く両腕をまわす
同じくらい力を込めてくれてもかまわないと、そう示すように
流星は躊躇ったが、やがて少しずつ、自分からも相手を抱き寄せていった


汚れた手が、誰かを抱きしめられる日が来るなんて夢にも思わなかった
この手は誰にも触れてはいけないはずだった
けれど、すぐ傍にいる彼は、受け入れてくれている
嫌悪感なんて微塵も見せず、その上自ら抱きしめてほしいと、そう望んだ


触れていても、拒まれない
そして、求めてくれている


流星は抱擁のさなか、確かな幸福感を覚えていた
受け入れ、受け入れられたことへの幸せを



流星が静かに腕を解くと、紫苑も離れた

「きみからこうしてくれたのは、初めてだね」
紫苑は驚きよりも嬉しさの方が勝っているのか、まだ微笑んでいた


「・・・僕も、君達を受け入れたかったから・・・」
控えめな声で、流星は呟いた

「君達って・・・ネズミにも、したのか?」
「いや、まだだ。・・・いずれは、しようと思ってる」
紫苑は眉根をひそめたが、それは一瞬のことで流星は気付かなかった

「そっか。・・・ネズミも、喜ぶと思うよ。きっと・・・」
後半、紫苑の声が微妙に沈んだが、流星はそれにも気付かなかった

「どうかな。ネズミは用心深いから・・・今みたいにはできないと思う」
先に紫苑を選んだのは、無防備にさせることが安易だったからだ
警戒心が弱い紫苑だからこそ、簡単に犬につられてくれた
しかし、ネズミとなると難易度は格段に上がる
いつも警戒心を忘れない相手を無防備にさせる方法なんて、すぐには思いつきそうになかった

「抱きつきたいって言えば、腕を広げて受け入れてくれるよ」
「え・・・・・・そんなこと、言えない」
自分の強いプライドと羞恥心の前では、その言葉は出てきそうにない
それは、相手に甘えを示すのも同じことだったから


「紫苑、ネズミが無防備になるときを見たことはあるか?」
ネズミのことなら共に住んでいる紫苑が一番知っていると思った流星は、そう尋ねた
だが、やはりそんな状態はなかなかないのか、紫苑はしばらく考えていた

「ネズミが無防備になるところなんて、見たことがないけど・・・。
でも、眠ってるときはいくらネズミでも、何もできないんじゃないかと思う」
「眠ってるとき・・・か」
それなら、流石にネズミも無防備にならざるを得ない状況になる
しかし、相手が気付いていないときに触れても意味のないように思える
ならば触れている最中に一旦起こせばいいかと、流星は思い直して提案に乗ることにした
そうするには、羞恥心を抑えて一つ言わねばならない言葉があるのが難点だったが

「そうだな。じゃあ、今からネズミのところに行って来る」
気が迷ってしまう前に行動した方がいいと、流星は立ち上がった

「・・・なら、ぼくはもう少し犬と一緒にいるよ」
また構ってもらえると察したのか、退屈そうにしていた犬が尾を振った
流星は部屋から出る直前で、紫苑を見た


「紫苑・・・ありがとう。僕を、受け入れてくれて・・・」


そう伝えたとたん、流星はまた温かいものを感じ、ふっと笑った
紫苑も柔らかな頬笑みで、流星に答えた
そして、流星は真っ直ぐにネズミの家を目指した

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